来客と違和感
長らく更新が止まってしまい申し訳ありません。更新は続けていきますので宜しくお願いします。それと、過去に上げたものの修正も一部行いたいと思います。
黒い靄が家中にどんよりと漂っているかのような陰鬱とした空気の中、1週間が過ぎた。女の子との距離は明らかに大きくなっている。この距離感を”溝が深まった”とか”壁が厚くなった”とかと表現するのとは、ちょっと雰囲気が違う。それどころか大きな語弊――むしろ誤りがありそうにも思える。
そこには明らかな隔たりがあるのではない。つまり、物理的に破壊できそうな隔たりがあるのではない。
それはまるで、彼女との間に斥力が働いているかのようなのだ。近づけば近づくほど、反発する力は強くなり、最後には無限大に発散する。壁とか溝とかの方がよっぽどましに感じてしまう。
それはまるで、赤の他人と同じ空間で突然暮すことになったかのような感覚だ。妙な緊張感が常に漂って、互いに相手の顔色を窺ってばかりいる。いや、もはや、赤の他人の方がよっぽどましである。
そんな斥力は何が引き金になって彼女との関係を崩壊させることになるのか、それが全く予想できないことによる不安によるものだろう。そしてそれは彼女にも俺に対してそれが言えるのだろう。まあ、それだけでもないようにも思えるのだけれど、それが主であるのだろうから、結局は同じことだろうし、それ以外は分からない。
――その日の朝は来客があった。
目が覚めた時、普段より部屋が暗い気がした。今日は曇りだろうか。
肌寒い……
5月だというのに、寒い日もあるんだな。
はだけた寝間着を整えて、布団にくるまった。体が温まってきたら、もそもそと起き上がって、廊下に出る。廊下の時計は卯1刻(5時半前)を指していた。先週の出来事の所為か、いつもの起床時間までは部屋にいた方が良い気がした。けれどそれは暇すぎることに気が付いてやめた。
俺が起きたことが彼女に分かるように、できるだけ足音を立てて階段を下りる。台所の方から物音が聞こえた。先週の二の舞を踏む気は無い。
台所の襖をノックする。包丁の音が止まった。
「あら、ミズキ、起きてたの。」
襖の向こうから声が聞こえた。
「おはよう。部屋に戻ってるわね。」
彼女と実に事務的な会話を済ませる。
うっかり”部屋に戻ってる”なんて言ってしまったことに後悔しつつ、用を足してから、部屋に戻る。数分前に懸念した通り、大いに暇だった。
暫くして、1階から彼女の声がする。ご飯ができたようである。
そうして彼女との朝ご飯を済ませる。それから、店の掃除を済ませる。そして、何を話して良いのか分からない、息の詰まるような静寂が訪れる。
数分後、彼女は奥の作業場に姿を消した。
「ふう。」と安堵の息を漏らす。それは心地の良い静寂とはかけ離れていた。
それから、俺がカウンターに座ってぼーっとしていたら、玄関の方から戸を叩く音が聞こえてきた。
後ろで襖の開く音がした。彼女が廊下に出たのだろう。どうやら客のようだ。
俺は作業場を経由して、階段に行く。階段は廊下と垂直だから、階段の壁に隠れて顔を少し出せば、廊下から玄関まで見通せる。彼女は玄関の戸を開けようとしているところだった。
客は誰だろうか。
イヴァンくらいしか思い当たる人物はいない。それはともかく、この空気を一瞬でも壊してくれた来訪者の姿を確認すべく、玄関を覗き見る。
客は男であった。
その客は俺に気が付いたのか、こっち向かって笑みを投げかけた。白人っぽいという前提を付ければ、どこにでもいそうな、人懐っこそうなお爺さんである。
その顔は俺の記憶にあった。
銭湯で会ったことがある。
あの時、女の子と何か話していたっけ。そのことかな? にしては遅すぎはしないか? もしかして、女の子の祖父だったりする? ありえそうだな。店を一人で切り盛りしていたとは考えにくい。なら出て行った方が良い? でも、彼女が俺を呼ばなかった以上、俺は必要無いと考える方が妥当か。彼女に迷惑をかけたいとは思っていない。呼ばれるまでは出るのはやめておこう。
そんなことを考える。
ちょうどその時、俺はその男に違和感があることに気が付いた。
何故どこにでもいそうなその男に違和感があるのか。彼の顔から順に見ていった。
そしてその正体はすぐに分かった。むしろ、どうして気が付けなかったのか、と思えてくる。
その原因は彼が着ている服に違いない。きっと、あれは軍服と呼ばれる類の物だ。詰襟で、左胸には勲章らしき物ジャラジャラと付けられている。それがその違和感の正体である。俺はそう結論づけた。
ふと、今、自分がどういう体勢で玄関を見ているかを思い出し、壁から顔をひっこめた。高校生男子が顔からちょこんと顔を出す、という行為がいかに気持ち悪いかは想像に容易い。だが、隠れてから冷静に考え直してみれば、俺の見た目が小学校中学年女子であったことに気が付いた。これなら、きっとセーフだよね。
彼女はそのお爺さんと二言三言話したのち、彼を家に上げた。足音が近づいてくる。
できるだけ足音を立てないように、2階に戻った。階段のそばで聞き耳を立てていた。どうも、彼女達は1階の奥にある部屋に向かったようである。
さすがに2階には来ないだろうけど…… 店にいて鉢合わせるのもな。
廊下の時計に目をやった。辰(7時)になったばかりである。開業までは時間がある。
というか、ありすぎる。
――またも暇になってしまった。
女の子は彼の来訪を知っていたのか、はたまた偶然か、今日は早めに支度をしている。俺が早く起きたことが原因かもしれない。店の方に行かずにできる残タスクは着替えるくらいしかない。だがそれには女の子に着替えを用意してもらわなければならない。
自室のベッドに寝っ転がって、天井を眺めた。何の変哲も無い、板張りの天井だ。天井板がむき出しになっていて壁紙が貼られていないことがせめてもの変哲かもしれない。
彼女は軍隊と繋がりがあるのだろうか。
そんな疑問が浮かぶ。だからどうした、というわけではあるが、日本人としては軍関係者が近くにいる、ということ自体がどこか現実離れしていて、違和感になってしまうのである。
そういえば、初めてあったときに憲兵がどうのって言ってたな。ここには軍という組織があることは間違いなさそうだ。
何かあったのだろうか。もしかして、先週のあれか? 実は軍の機密に関わることでもあったのか?
ついには暇に任せてそんなことを考え出す。
ところが、馬鹿げた空想も、物の1刻でネタが尽きる。あと1時間半、俺は何をして過ごせば良いのだろうか。
とりあえず部屋から出てみた。
階段に近づいて、耳を澄ませる。1階からは話し声が聞こえた。まだいるようである。
話の内容を聞き取れないかと頑張ってみるが、難しかった。下に行っても良いが、邪魔になる気もする。それに本当に俺に聞かせられないような問題であるのなら下手に関わりたくはない。俺は波乱万丈の人生なんか望んでいないのだ。
部屋で教科書を読んで、開業時間になるのを待つことにした。
開業1刻前、玄関から人が出る音がした。帰ったのだろうか。俺は部屋から出て、通りを望む窓から外を見る。どうやらそのようである。
彼女が戻ってくるのとタイミングを合わせて、階段を下りる。
「あら、上にいたの。」
彼女が玄関に上がりながら言う。
「ええ。着替えはあるかしら。」
無駄話をするべきではない気がした。だから要件だけ伝えた。
「あ、ごめん。忘れてたわ。」
彼女もそれを理解しているのか、これと言って何も言わず奥へと駆けていった。足音が遠ざかり静かになった廊下で、俺は壁に寄りかかり、彼女が行った方を一瞥した。
彼女から着替えを受け取って着替える。その後はいつも通り、カウンターの後ろに座っていた。開業まで15分、朝の喧噪は心地の良いBGMとなり、緩やかな時を刻んでいた。