林苑に聞こゆ(参)
そろそろ一つ目の変曲点ですね。まあ、どこが変曲点だと思うかは、人それぞれですけど…… ニ次導関数が求まるわけじゃないですし。
昨日に引き続き今晩も外食となった。汚い店だけど、昨日のことがあるためか、こっちの方がよっぽど良い気がする。
掃除が行き届いていないラーメン屋、そんなイメージだった。卓と卓の間隔は人がすれ違うのがぎりぎりといったところ。タバコの煙が天井に雲を作り、漂っている。心なしか床がヌルヌルしている。気の所為だと思いたい。そして、是非とも掃除していただきたく思う。
それに、酒臭ぇな…… 酒を飲んでいる人が多いんだな。やたらと大声で話す人が多いし。……煩い。
ラーメン屋から居酒屋に評価を変えることにした。それも綺麗じゃないやつ。
うん。これはこれで、少女が二人きりで来て良い所でじゃないよな? けど、昨日のみたいな恐怖とか緊張は無いのは事実……か。
心配ごとって言えるのは、酔っ払いに絡まれないかとか、金をすられないかとか、だし。少なくとも罠にはめられているんじゃないか、とは思わないもんな。俺にはこういう方が向いている。
料理は、座っていたら、女の子が勝手に注文してくれたいたみたいだった。気がつけば、料理が運ばれていていた。第一印象は定食だ。コースではない、という表現の方が適切かもしれない。回りくどい表現をしないなら、要は、普通の飲食店である。
食文化には和食のテイストが殆ど無いみたいであった。辛味と酸味が強い、湖南料理っていうやつだと思う。テレビで見たことがある。
でも四川料理っぽい雰囲気もあるし、中国料理のどれとは言い難い。俺が中国料理に暗い所為かもしれない。とりあえず、湖南料理っぽいサムシングとしておこう。
――周りの客が食べる物に目をやった。
へえ、魚を使ったメニューは全然無いんだ。
とすると、きっとここは内陸なのかな? そうなると、前に聞いた"船"っていうのが何なのか気になるところなんだけど……
女の子の方に目をやる。は更に何品か頼んでいるところだった。俺は全く何も頼んでいない。だって、何を頼んで良いのか、なんて分からないのだ。というか、メニューが読めない。何ですか? この漢字の羅列は? って感じだ。どうして料理名は中国語なんだよ!
とりあえず、出て来る料理に不味い物は無かった。確かに、昨日に比べると、味の繊細さや上品さには欠ける。けれど、俺が求めるのは、こういうレベルなのだ。美味すぎる物は金持ちに譲ろう。
食べている間はこれといった会話をしなかった。「これ、頼むわよ。」「うん、分かった。」くらいしか話すことが無い。本当は、何を頼んでいるのかも分かっていなかったのだけど。
——今日は特に何も起こらず家路に着いた。食事代は一人あたり大体30ケントとのことだった。
この頃、何かと事件が起こりすぎている。それが原因で、何も起こらないことに違和感を覚える。だけれど、これが普通なのだ、と自分に言い聞かせる。
しかし、家に帰って…… いや、帰ろうとした時、事件は起きた。
何だよ。折角、今日は平穏だと思ったのに…… 心中でぼやく。
家の前に人影があった。頭までフードを被っていて、誰だか分からない。けれど、心当たりがあるのは一人しかいない。
「お。」
その男が俺達に気が付きたのか、こちらを向く。顔は見えない。けど、やはり、声はイヴァンのそれだった。
「何よ、こんな時間に…… と言いたいところだけど、昨日も来たんでしょ? 店を開けるから待ってて。後、ミズキは着替えて寝てて良いわよ。」
女の子が戸を開ける。
その言葉に従わない理由は無い。何となく、不安は残るのだけれど、部屋に行く。
寝間着はパジャマというより、襦袢に近い。上下は別れていなくて、浴衣みたいである。白に近い色で、柄は一切無い。帯を締めるのではなくて、裏地に付けられた紐を結ぶタイプだ。要領は甚平と同じである。
”着替えて寝てて良い”って言われてもな…… まだ戌の刻(20時)だし、全然眠くないんだよ。ついでに、下で何を話してんのか気になるし。
……仕方が無い。
眠くなるまで、漢文の勉強をすることにした。
気がついたら、朝になっていた。脇には”俺の教科書”が閉じられている。机に突っ伏していたようだった。
寝落ち……
状況から、何があったのかを察した。
ランプの火が消されていた。肩には布団が掛けられている。多分、どらも女の子がやってくれたのだろう。
彼女に感謝をしつつ、布団を寝台に戻す。顔でも洗おうか、と部屋を出る。
時を刻む音だけが、廊下に木霊していた。彼女はまだ起きていないのだろう。家は至って静かだった。
台所で洗顔をして、改めて時計を見る。寅と卯の間――5時ごろだった。
いつもより、かなり早いな…… どおりで静かなわけだ。
勉強する気にはならなかった。ここで、朝ご飯でも作っておけば、女の子に喜ばれるのだろう。けれど、食べ物がどこにあるのかすら分からないから、そんなことはできない。
結局、店の掃き掃除を軽くするくらいしやることが無かった。
そしたら、タイミング良く、2階で足音がする。女の子が起きたみたいだった。
調度良い、この機会に、朝の仕事を教わっておこう。
女の子が下りてくるのを店を掃いて待った。
「あら。」
俺を見つけた女の子が声を発する。
「今日、早く起きちゃって。」
「そういうこと。……そうだ、昨日の夜。あなた、火、消さないで寝ちゃったでしょ。」
「ごめんなさい。」
「私が消しておいたから良かったけど…… せめて、天井に吊して倒れないようにしておいてくれる? 倒れて火事になるかもしれないから。」
「ごめんなさい。次からはそうするわ。」
「ええ。そうしてちょうだい。」
彼女は襖を閉めようとする。しかし、後10数センチってところで、思い出したように、その手を止めた。
「昨日、手伝ってくれるって言ってたわよね? 」
ああ、そんなことも言ったな。
「うん。」
「早速だけど、良いかしら? 」
何か仕事欲しい身としては、好都合だ。
「何をするの? 」
「ついてきて。」
女の子は閉じかけた襖を再び開けて、歩きだした。
庭に出る。その北にある井戸に向かった。
水汲みをしてほしい、とのことだった。彼女は「着替えてくるから。」と言って、その場を後にする。俺は、一旦、台所に戻ってバケツを持ってくる。
バケツは5リットル程度だろう。それで何往復かする。はっきり言って、体は小学生の女子である俺にとっては、中々きつい仕事だ。ただ、運ぶのはそんなにきつくない。一番きついのは組み上げる作業なのだ。人間は重力に逆らってはいけない、ということを実感させられた。
汲み終わるのを見計らったのかのように、女の子が台所に姿を現した。いつもは結んでいない髪を、一つに束ねている。それを見るのは、この家に来た時以来かもしれない。
「あら、丁度良かったわね。着替えてきちゃってくれる? 朝ご飯の方は私が作っておくから。」
「分かった。」
バケツを置いて、台所を出た。
着替え終わったらご飯ができてた、なんてことは無かった。台所に近づいたら、まだご飯を作っている音が聞こえる。
台所と廊下を隔てる木戸(雨戸に似ている)を引く。少々つっかえながら、それは開いた。
「姉さん、何か手伝う? …………え!?」
自分の口から出た言葉に自分で驚いた。
ふざけて言ったわけではない。”姉さん”という単語は、ごくごく自然に、何の戸惑いもなく、発せられたのだ。俺と彼女は姉妹ということにはなっているけど、彼女を姉などと思ったことはないはずだ。だから、自分でもその言葉が出てきたことに驚いたのだ。
……カンッ。
女の子が包丁を落とした。
恐ろしいものが後ろにいるかのように、ゆっくりと首を回す。俺に、まるで化物でも見るかのような目を向ける。その顔はやや青ざめ、目は見開かれ、手は小刻みに震えている。
彼女は、水面に上がってきた魚のように、パクパクと、小さく口を動かす。
「——あ………… ミズキ、どうしたの? 」
平静を装おうしていることはバレバレだった。
「あ、ごめん。」
丁寧に謝ろうなんてことに頭を回す余裕は無かった。まず、何がそんなに問題だったのかも分からない。自らの発言に加えて女の子の反応。混乱に混乱が重なって、そんな簡素な文しか言えなかった。
「いえ、大丈夫よ。」
まだ震えの残る手で落ちた包丁を拾い上げる。また包丁を落としてしまうのではないか、と心配になる。
「……そうよね。私があなたの姉だって言ったのは、私自身だものね……」
彼女はぶつぶつと呟く。それが俺に向けられたものなのか、はたまた独り言なのか、俺には分からなかった。