君を忘れない(上)
「ん? 」
我ながら、実に間抜けな声を出した。
さっきまで…… そう、さっきまで、俺は学校にいたはずなんだ。
さっきまでは……
でも、今は違う。ここは……どこだろう。
学校? んな馬鹿な。そんなわけがない。普通、これは繁華街って言うんだ。そう、ちょうどイメージしやすいところだと、京都の祇園あたりだろうか?
うーん、それでもちょっと違うな。こう、屋根の端っこの方がぴょんぴょん尖ってたり、2建てとか3階建てとかの建物が多かったりしてて……
そう! あれだ。『千と千尋の神隠し』的な雰囲気なんだ。日本というより中国——むしろ台湾っぽいんだ。
とまあ、今いる場所の雰囲気を説明できたところで、何も進展はない訳で――
俺は何でこんな所に?
考えても、ここに来る直前から10分前くらいからの記憶がきれいに抜け落ちていて思い出せない。「靄がかかったように」なんて比喩が通用しないくらい、きれいさっぱり無くなっている。もやもやなんてする余地も無い。
「どうしたものかな。」
人混みの中、ぽつりと呟いた。
……ん?
なんだか違和感があった。
自分の声に違和感があったのだ。
もう一度、呟いてみよう。
「どうしたもの…… あれ? 」
するとその違和感が疑問に変わった。
簡潔に言おう。”あれ、俺の声ってこんなに高かったっけ? ”である。
聞き間違えかな?
「あー、あー、あー。……うん、やっぱり高いなぁ。」
何だろう。視覚がおかしくなったかと思えば、今度は聴覚か? 堪ったもんじゃない 。
そういえば、さっきから足元が柔らかい気がするんだけど、触覚もいかイカれた? もう踏んだり蹴ったりだな……
まあ、一応、変な物——例えば犬の糞とか、蛙とか——を踏んでいても嫌だし、確認くらいはしておくか。
俺は視線を下に向ける。
「………………ほあ! 」
そして足元の物が目に入ると同時に、思わずどこかの通信教育のCMみたいな声を上げてしまった。
おいおいおい…… ちょっと待とうか。ね?
――いやいや、何を待つんだ。
えーっと。
マズい、どんどん混乱してきた。
これまた簡潔に言おう。人を踏みつけていた。髪の長さからしてきっと女の子に違いない。俺は彼女の背中の上に立っていたのである。
混乱して頭が真っ白に——とはならなかった。やばい、やばい、やばい、やばい、という感情、そして大量の言い訳が嵐の如く頭の中を渦巻く。真っ白というよりフリーズである。どの道、同じっちゃ同じだ。
「す、すみません。」と俺は慌てて跳び退いた。女の子の背中には、俺のスニーカーがくっきりと跡を付けていた。
どうしよう。でも、なんて話しかければ……
俺は人並みのコミュ力を全力で振り絞る。そもそも、気が付いたら女の子の背中を踏みつけていたという今、必要な力はコミュ力ではなく、何か別の力な気はするのだが。
女の子は「痛てててて。」と言いながら、もそもそと起き上がった。
和服をサブカル方面にアレンジした感じの、コスプレと思わしき物を着ていた。着物×プリーツスカートというのが初見の感想だ。駅前で配られてた和風メイド喫茶のチラシ付きポケットティッシュで見たことがある。
彼女は、立ち上がるが早いか、直ぐに俺の方を睨みつける。とりあえず目を合わせないことにした。
「何するのよ! 」
そして女の子に怒鳴られた。
至極当然だと思う。でも弁明の一つくらいはさせてほしい。
「気が付いたらここにいたんです。」
俺は言った。
――何が弁明だ。これじゃ、ただのヤバい奴だ。でも、これが事実なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。現実は時として想像の斜め上を行くのだ。
変な沈黙が流れた。それから――
「……はあ!?」
ほら案の定、女の子はさっきよりも一段と強く怒鳴ってきた。
「いや、俺にも分からないんだよ! 」
思わず声を荒げた。こっちに一方的に非があることは分かってる。攻撃されたから思わず、ってやつだ。防衛本能として許してほしい。
「何なのよそれ! 突然、飛び降りてきて、私を踏みつけて…… 死ななかったから良かったものを! 見なさいよ。」
女の子はひざ丈のスカートをまくり上げる。ひざには血がにじんでいて、傷があることは火を見るよりも明らかだった。
「すみません。」
とっさに謝った。
「謝れば済むとでも思ってるんじゃないでしょうね!?——」
そりゃそうだけど。
「——ああ、もう…… ここじゃとんだ見世物じゃない。」
女の子は、分かりやすく大きな音で舌打ちをすした。確かにさっきから人だかりができている。
「警察、呼びます? 」
俺はスマホをポケットから出す。
「ぁあん? ケ・イ・サ・ツ? なによそれ。あんた、やっぱり、頭、おかしいんじゃないの? 」
頭おかしいは無いだろ…… つーか、頭おかしいのはお前の方なんじゃないか? そう言いたくなる気持ちをぐっとこらえる。そもそも”やっぱり”ってなんだよ。”やっぱり”って。
「——こんなことで一々憲兵を呼んでたらキリがないわ。ついて来なさい。そっちで話を付けてあげる。」
そう言って、女の子は鼻から荒く、ふん、と息を吐き、歩き始めた。
付いてかないのはマズいだろうな。そう思って俺はついていくことにした。怪しかったら逃げれば良い。とりあえず、今はことを荒立てない方が良さそうだ、と。
「にしても、そっちってどっちなんだよ。」と俺は小さく呟いた。
女の子に連れてこられたのは図書館のようなところであった。和風4割、中華風5割、に西洋っぽい雰囲気を1割程度合わせた感じである。四角い、すり鉢状に書架が並んでいる巨大な部屋や、まるで執務室のような小さな部屋まで、数多の部屋からできているようだった。利便性は何処へやら。そこはまるで本の迷宮である。
どの部屋も赤と金を基調としたデザインで、和の美学というより雅の美学を感じさせる。一歩間違えたら、ケバい、で終わりになってしまうだろう。しかし、その内装はその一歩を間違えていない。そこは完璧である。
そんな中、女の子は俺を後ろに引き連れてずんずん歩く。余裕があれば、本を読まずとも、その内装だけで一部屋に小1時間は居座れそうな部屋の数々。しかし女の子があまりにも早く歩くから、うかうかもしていられない。
一際小さな部屋に入った。6畳くらい。天井までは2メートル以上の部屋。そこには向き合わせるように四角い机に二つずつ椅子が並んでいた。それ以外はさほど特徴の無い畳の床、板張りの壁、同じく板張りの天井と言った感じだった。さっきまでの錚錚たる部屋の数々に比べて、一際見劣りする。
女の子はそこで立ち止まった。そして椅子に座ると、向かい合う位置に座るよう、俺に促した。
「さて、と。」と組んだ手を机の上に置く女の子。口元には薄っすらと笑みを浮かべている。ああ、これはヤバイやつかもしれないな、なんて思い始める。
「——なんであんなことをしたのかし? 」
怒り丸出し。そんな感じで問いかけてくる。しかしどんなに怒鳴られようとも答えられることはこれしかない。
「良く分からないんです。」
「はあ? 白昼堂々人混みに飛び込んどいて覚えてない? 」
「いや、覚えてないものは覚えてないんだよ。俺だって、何でこんなことになったのか知りたいぐらいだよ。」
「ふーん…… へえー…… はーん……」
女の子はこれでもかというくらい、信用していないことを前面に押し出した相槌を打つ。
「——後さぁ、その男みたいなしゃべり方気持ち悪いんだけど。それとその恰好、士官でも意識してるの? そういうお年頃ってやつ? 」
「は? 俺は男だけど? 」
「ああ、もう…… 立ちなさい。」
そう言いながら、女の子は席を立つ。
立つの? え、何するの?
そうは思いつつも、とにかく立った。
その途端、女の子は俺のベルトを素早く外し、瞬く間にスラックスを脱がせた。一瞬である。気が付いたときには、すでにパンツまで下ろされていた。驚異の早業だ。
そして俺は目の当たりにした。
無い、無い、無い、無い、無い。
「無い! 」
「これで分かったでしょ? 」
「俺が…… 女? 」
「いや、そうじゃなかったら何なのよ? 」
「あ…… あ…………」
ああ、これが現実なのか。夢であって欲しい。幻覚であって欲しい。
そう願えど、現実は、目の前にあるのである。
おれは
めのまえが まっくらに なった!