第三話 ルキフェル
「……下界……地獄……」
カンパネラはゆっくりと噛み締めるように呟いた。
「うむ。神様から与えられた知識の中にその二つの項目はないか?」
エルに言われてカンパネラは頭を垂れて深く考えこんだ。そしておもむろに顔を上げて言った。
「……あります……でも下界と地獄は別々のものって……」
「うむ。そうじゃな。下界のさらに下に幾層もの地獄がある……というのが一応正しい知識じゃ。じゃがな、下界なんぞ数ある地獄の最上層に過ぎん……とわしは思うておるのじゃよ」
「……地獄って悪いことをした生き物が行くところなんでしょ?下界はまだ悪いことをしていない、いろんな生き物が住んでいるんでしょ?なのに一緒なの?」
「うむ、一緒じゃ。なぜならば下界に生きるすべての生き物が、死して後は必ず地獄へ行くからじゃよ」
「……悪いことをしていなくても?」
「いや、生きとし生ける者はすべからく悪なのじゃ。じゃから必ず地獄へ行くのじゃ。可哀想じゃが下界の生き物たちには天国への道は閉ざされておるのじゃよ」
「……天国?」
「うむ。それも知識の中にあるはずじゃがな。まあよい説明してやろう。天国とはな、この塔の頂上にある神々が本当に住まうこの世の楽園のことじゃ」
「……じゃあこの塔はなんのためにあるの?」
「この塔はな、神々が不浄な下界へと降りるさいに御身を慣らすためにあるのじゃ」
「どういうこと?」
「うむ。天国はな、一切の不浄なるもののない完全なる清浄の世界なのじゃ。それに対して下界は不浄の地じゃ。そんな所へいきなり降りようものなら清浄な空気に慣れた神々の御身が不浄な空気に驚いてしまって病に冒されでもしたら大変じゃ。そのためこの塔で御身を慣らすのじゃ。この塔はある程度清浄ではあるが完全ではなく、少々不浄な空気が混じっておるが下界ほどではない。いわば中間点なのじゃな」
「ふ~ん。じゃあエル様はすぐに下界へ降りられるの?」
「うむ。いつなんなりとな」
「エル様!お願い!カンパネラ下界へ降りてみたい」
カンパネラの突然のお願いにエルは大いに慌てた。
「い、いや、それは、神様のご判断を仰がねば……わしの一存では、その……ちょっと……」
「お願い!エル様!」
「う~む……」
エルが困惑の表情を浮かべて態度を決めかねていると、部屋の外から二人に向かって語りかける者がいた。
「構わないじゃないか。下界を見せてやればいい」
エルがその声に驚いて振り向くと、そこには雪のように白く滑らかそうな上質な布を贅沢にゆったりと身体に巻きつけ、煌びやかに光り輝く金色のブローチでもって肩と腰の二箇所を留めた衣装を身に纏った、浅黒い顔の男がいた。
「……ルキフェル様……」
エルは驚愕の表情をその顔に貼り付け、喉を搾り出すような声でその男の名を呼んだ。
「……ルキフェル……様?」
カンパネラの声にハッと我に返ったエルは居住まいを正し、男に向かって恭しく頭を垂れた後、傍らできょとんとしているカンパネラを男に紹介した。
「ルキフェル様、これは失礼を致しました。これに居りますのはイリス様が創られし人形、カンパネラにございます。どうぞよろしくお見知りおきを」
「ああ。イリスそっくりな人形のことなら知っているよ。僕も僕自身にそっくりな人形を創ったし、他の神たちも皆創って互いに見せ合いっこをしたからね。でもそれはあくまで人形だよ。だがどうもその子は違うようだ。どうやらイリスはその子に命を吹き込んだようだね?」
「……はい。仰るとおりでございます」
エルの、男に対する態度は徹頭徹尾恭しいものであったが、それは敬意の表れというよりかは男に対する恐怖からくるもののようにカンパネラには思われた。
(エル様が怖がっている。ならきっとこのルキフェル様もイリス様と同じ神様なのね)
カンパネラがそう思ったのには訳があった。
カンパネラが生まれてからのこの一週間の間で、一度だけイリスが姿を見せたことがあった。
その際、イリスはカンパネラには一瞥もくれることなくその傍らを通り過ぎ、エルの前に出るとなにやら用事を申し付けた。
その時のイリスに対するエルの態度は、今のルキフェルに対する態度同様に大変に恭しいものであった。
そしてイリスが立ち去った後、カンパネラが話しかけるとエルは恐怖に身体を震わせていたのだ。
だからカンパネラは思った。
神様とは恐るべき存在なのだと。