第十七話 嘆きの川
1
「殺……そうとした?……ルキフェル様をか?」
エルは驚きのあまりか喉が窮屈となり、必死に搾り出すようにカンパネラに問うた。
カンパネラはその問いに無言でゆっくりと頷いた。
「……なぜじゃ?……意味がわからん……なぜそんな気持ちになるのか……わしにはまったく意味がわからん……」
エルの困惑は極限に達し、問いの最後は自問自答しているかのようであった。
カンパネラはそんなエルを悲しそうな表情でただじっと見つめるだけであった。
すると、それまで静かに二人のやりとりをただ黙って聞いていたニンバスが、その重い口をゆっくりと開いた。
「……僕は……すこしわかるよ……カンパネラの気持ち……」
カンパネラはそのニンバスの言葉に慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
するとエルは、二人が心を通じ合わせている様を見て、諦めたような口調で言った。
「どうやら、雌雄同体のわしにはわからんことのようじゃな……」
カンパネラとニンバスは驚き、ほぼ同時に言った。
「「雌雄同体!?」」
するとエルはとぼけた表情で二人の顔を交互に見やって言った。
「言うてなかったか?わしは雄でもなければ雌でもない。性別という境を越えた彼岸の存在じゃよ」
「知らなかった……わたしてっきりおじいちゃん猫だと思ってた……」
「えっ!僕はすっかりおばあちゃん猫だと信じ込んでいたよ……」
二人は顔を見合わせてしばし笑いあった。
エルはその様子をつかの間の憩いと微笑ましげにわずかばかり見つめていたが、頃合いを見計らって再び切り込んだ。
「ふっ……まあそんなことはどうでもよい。それよりも、だ。……その後どうなったのじゃ?」
エルのうってかわった真面目な問いに、緩んでいたカンパネラの表情が急激に引き締まった。
そして固く引き結んだ口をゆっくりと開き、慎重に言葉を紡いだ。
「……地獄の最下層へ堕とされました……」
2
「……地獄の最下層……嘆きの川か……」
エルは嘆息まじりに呟いた。
それを聞いてニンバスが静かに問いただした。
「……嘆きの川……ってなんですか?」
エルはニンバスに向き直って丁寧に説明した。
「地獄の最下層にある絶対零度に凍りついた川のことじゃ。もっとも深い罪を負った者がこの川に堕とされ、凍りつき、身動き一つ取れぬ身となって永久に捕らわれるのじゃ。そんな罪人に出来ることといえば……嘆くことだけ……ゆえに嘆きの川と名づけられたのじゃよ」
「……もっとも深い罪ってどんな罪なんですか?」
「……それは……神への裏切り……じゃよ」
するとそれを聞いたニンバスは突如胡乱な目つきとなり、なにやら虚空を彷徨うように視線を動かしながらおぼろげに呟いた。
「……ああ……そうなんだ……一番深い罪って……神様を裏切ることなんだ……」
だがエルはニンバスの奇妙な様子には気付かず話しを進めた。
「うむ。そうじゃ。神様を裏切ってはいかんのじゃ。あの子達にもよーく言って聞かせねばならん。なによりも神様を崇め奉ることが肝要なのじゃからな」
「……神様は……僕らになにをして下さるのでしょうか?」
「ん?……特に何もしては下さらん。神様に見返りを求めてはいかんぞ。ただひたすら崇め奉るのが肝心じゃ。……それに、そもそも命を授かっただけでも感謝せねばなるまいて……」
「……そうですか……そういうものですか……」
ニンバスはそう言うとやおら目を伏せ、まぶたで胡乱な目つきを覆い隠した。
エルはニンバスには構わずカンパネラに向き直って言った。
「それよりも、だ。お前はどうやって地獄の最下層から脱出できたのだ?そのようなことは神ならぬ身に出来ることとは思えぬが……」
「いえ、脱出してはいません。わたしの身体は今も嘆きの川に捕らわれています」
「どういうことじゃ?」
「抜け出したのは魂だけです」
「ふむ。そうか。しかしながらそれとてもなお可能な事とは思えんのじゃが……」
「はい。同じ嘆きの川に捕らわれたある方に助けていただきました。その方はいつも魂だけ抜け出しては色々と見て回り、楽しんでいらっしゃいました」
カンパネラは楽しげに思い出し笑いをした。
「ううむ……そのある方とは誰じゃ?」
「それは言えません。その方の名前を言う事は固く禁じられているので……」
「わしにも言えんのか?」
「はい。言えばエル様に危害が及ぶかもしれませんから……」
「ふむ。そうか。魂だけとはいえ地獄の最下層から頻繁に抜け出す事の出来る能力の持ち主となれば相当な実力者じゃろうからな。わしなどひとたまりもないな」
カンパネラはエルの言葉に大きくうなずいた。
「ではお前はたまたまその方の能力によって魂のみ抜け出し、偶然造られてあったイリス様を模した人形を見つけて中に入った……ということか?」
「いえ、偶然ではありません。その方が見ていたのです。イリス様が自らを模した人形を創るのを」
「そうか。その方は色々と見て回っては楽しんでいるのだったな。なるほど。そういうことか……ん?なにかおかしくないか?なにか忘れているような……」
「はい。それは……記憶……ですね」
「そうだ!それだ!なぜお前は人形に入るとき前世の記憶を失ったのだ!?」
「それはわたしにもわかりません。おそらくはあの方にも……」
「なぜそう言えるのじゃ?」
「記憶を失った状態のわたしを見ていても面白くはないでしょうから……あの方は面白い事がなにより好きなのです」
「そうか。ではなぜ記憶を失ってしまったのか判る者はおらんということか……」
「いえ、います。……一人だけ……」
エルは眉根を寄せて考えた。
そしてある一人の男の姿が脳裏に浮かび上がった。
「そうか……あの御方か……」
「はい。おそらくは全てを見透かしほくそ笑み、事の成り行きを楽しんでいたであろう者がいます」
カンパネラはそこで大きく一つ深呼吸をし、さらに言葉を継いだ。
「その者はわたしの前世の記憶をなぜか持ち、それを甕に納めてわたしたちの前に持って参りました」
そこでカンパネラは目を大きく見張り、眦を決して決然と言い放った。
「その者の名はルキフェル。この世でもっとも邪悪なる者の名です」