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第二十三話 ケルツィオ山岳の主

 ため息をつきたくなった。

 もう印の場所まで来ていたのに、肝心の城が見当たらないのだ。

「というわけだ。場所を教えろ」

「そろそろ言いだすと思っていたぞ、この暴君め」

「黙れ。俺は魔王だ、いいから吐け」

 命を捨てない限り俺から逃れる術などないとようやく分かったのか、バースは意外にも素直に道案内をする。そして、てくてく歩くこと数分。


「――ここだ」


 辿り着いたそこは、俺が目を見張るような城だった。

 優雅に聳え立つ、その城の高さは何と五メートルほどで、幅は七メートル。奥行きは十メートルあるかないかのこれは!


「ただの山小屋じゃねーか! 嘘をついたな、この犬っころ!!」

「きゃん! きゃんきゃん!!」


 小脇に抱えられたバースは逃げ出そうと必死にもがく。だが、当然逃がす俺ではない。

 というか、この時点で逃げ出そうと思う精神がどうかしている。もがいて助かるくらいなら俺に掴まるわけがない。

「ここが城だ! 嘘はついてない! 本当だ、我らが獣王(ベヒモス)様に誓って!」

獣王(ベヒモス)? ああ、獣種の最上位か」

「そうだ! 私は嘘は言わん!」

 バースは必死な様子で訴えてくる。それもそうだ、獣王云々は置いておいても、この場で俺の機嫌を損なったら殺される可能性の一つくらい、さきほどの拷問を振り返れば思い当たるだろう。文字通り必死だ。


 断言できる、バースの言葉は嘘じゃない。


 とすると何か? 俺はこんな山小屋に住み、あまつさえこれを城などと呼ぶバカと対決せねばならんのか?

 あらゆる可能性を予測する。

 結論。

「……帰るか」

 とたんにやる気がなくなった。

 同僚から嫌がらせを受けていると思って怒ったら、近所の子供のいたずらだった、というくらいに虚しい。

 むしろ自分が恥ずかしくなる。たかだか脳の足りていないような文章一つで何を俺は熱くなっていたのか。

「駄目だ! それはいかん!」

 くるり、と方向転換すると、途端にバースは慌てたような声で俺を呼びとめた。といっても、俺の腕の中でもがいているだけだが。

 その様子を不審に思いつつ、俺は若干の苛立ちを覚える。

「……何故だ? 言っておくが、どんなにモスなんちゃら伯爵だかが強くても、この俺の前に立てば死ぬより他にないぞ?」

 当然、俺には殺すつもりはないが。

「いや、しかし――!」

 なおも言い募ろうとしたライウルフの目を、じっと見る。

 バースが開きかけた口を閉じ、俺の目に吸い寄せられるようにして視線が動かなくなる。

「それとも、お前はこう考えるのか? 何の冗談でも詭弁でも、ましてや嘘でもなく。この非凡なる俺を相手に、お前の領主とやらは勝ち得ると……、そう思っているわけか?」

 口を開こうともせず、バースは黙り込んだ。先程までやかましく回転していた舌は凍結したように動かなくなり、抱いている腕からバースの鼓動を感じるほどに血圧が上がる。

 ……そんなつもりはなかったが、脅かし過ぎてしまったらしい。だがそのほうが都合がいいのも確かだ。俺はわずかに震えているバースをゆっくりと締め上げつつ、声も低く唸る。

「――二度は言わん、答えろ。これは命令だ」

「モ、モスクルト伯爵は、その……」

 物理的、精神的圧力に押され、バースは目をきょろきょろとあちこちに動かしつつ、何かの言葉を探している。

 実際のところ、ここでバースが「勝てる」と言うのなら、俺はどんな相手でも立ち向かうつもりだ。妙なプライドや慢心ではなく、本当に、この俺自身ですら信じられないような怪物である自分を前にして、尚も勝てると思わせるような化物を、俺は見てみたい。

 そして、今の総てをぶつけてみたい。

 敗北しても、魔法が得意ではないとか、身体をある程度使いこなせるようになって日が浅いとか。そういう自分への言い訳もすることはないだろう。

 これは、転生する前にも後にも同じ、ある種、俺自身の生きる目的ではあるが。


 一番になりたい。

 理由などなく、当然価値すらない。それは純粋に俺の興味の指し示す先として。

 すべての一番になりたい。

 今までどんな物事を極めても、どんな大会で優勝しても、変わらずその望みは俺の中にあった。何の一番になりたいのか、どうしてなりたいのかは俺にすら分からない。

 それも、一番になったら分かるのではないか、と信じている。

  

 ……などと、少々浸っている間にバースは黒目がほとんど見えなくなっていた。 

 締めすぎたか、と一瞬焦ったが、そこまでキツくはしていない。

 この犬、何を勝手に気絶しようとしているのだ。


「起きろ。そして吐け。それとも、お前から絞め殺されたいのか?」

「はっ! わ、我らが領主は、モスクルト伯爵は――」


「もうやめて! バースを離して!」


 突然。乱暴に山小屋の扉が開き、なかから飛び出した人物がそう叫んだ。

 せっかく答えを言いかけたバースがそちらを向き、目を剥く。

「は、伯爵!?」

「伯爵だとっ?!」

 俺はその言葉に驚き、ほとんど見てすらいなかったその人物を再度見やる。

 女だ。しかも人間の。しかも幼い。

 フェルレノが元の世界で言うところの中学生くらいだとすると、こっちは幼稚園レベルだ。

 ロリとかそういうレベルじゃない。

 なんというか、もう家帰って寝てろ、と言いたくなる年齢の幼女が、なぜここにいる?

 と思ったが、よく見てみるとこめかみから角が生えている。魔力も極めて微量ながら感じるし、魔族なのだろう。

 というか、そんなんじゃなく、俺は伯爵とやらがどんな奴か見たい。

 再度周囲に目をやるも、固まったように動かないバースと、なんか半泣きで今にも大泣きしそうな幼女しか、周囲にはいなかった。

 気配すらない。魔力も何も感じない。

 ……そういうことか。

 隠れているのだ、伯爵とやらは。


「なるほど確かに。この非凡なる俺に悟らせないとは、伯爵……さすがは爵位持ちの魔族か。だが、いつまでそうしているつもりだ?」


 ビク、と何故か幼女が反応した。肩を緊張にふるわせつつも、俺の腕の中で縮こまっているバースをうるんだ目で見ている。

 なんだ、そんなにこの犬が気になるのか? と疑問に思った瞬間、この非凡なる俺の頭脳が完璧な予測を叩きだした。

 おそらく、この幼女は伯爵とやらの遠縁か、もしくは娘。自身を忠臣と言うくらいだ、この腕の中で何故か放心しているバースと親しい間柄にでもあるのだろう。

 どこかはまだ分からないが、伯爵がすぐ傍にいる。ならば、すぐに戦闘になることはそこにいる幼女にすら予測できることだ。激戦が予測されるこの地に、仲間であるこの犬がいることが、心配で仕方ないのだろう。

 ……もしかすれば、幼女がいるから、伯爵とやらは姿を見せないのかもしれん。

 姿を見せたらすぐに俺が戦闘を始めるとでも警戒しているのだろうか。いや、そうに違いない。あの幼女を巻き込まないために、姿を出すに出せないのだ。

 となれば、解決策は一つ。

 俺は腕の中のバースを放してやった。そのまま、少し後退して距離を取る。

 バースはボト、と地面に落ち、そのまま放心し続けていた。だが幼女が素早く駆け寄り、バースを大事に抱きしめる。幼女は続けて、バースを背負おうとしたが、僅かにバースのほうが大きい身体をしているせいで、持ち上げるのに苦労していた。

 手を貸すべきか、悩む。

「んー、んぅーっ!」

 手を貸した。ひょいとバースを持ち上げ、幼女の背中に乗せる。

 時間はかかったが、幼女は無事、山小屋の中に運び入れた。

 小屋に入る寸前、俺に振りかえって少しだけ頭を下げた。

 ふん。礼儀のある小娘じゃないか。よほど伯爵とやらの教育が行き届いていると見える。後進の育成に力を入れる企業には未来がある。社員を使い捨てるだけの会社は長くは続かない。この法則が異世界の、しかも魔族のカースト制に通じるかは別だが、少なくともモスクルト伯爵とやらは長い目で物事を見ることのできる魔族だと解った。


 さて。

 もういいだろう。


「準備は出来た筈だ。モスクルト伯爵とやら……己の血と力に誇りがあるのなら。堂々と胸を張って俺の前に立つが良いっ!」


 大声を張り上げる俺の前には、巨大な影。

 圧倒的な魔力をその身に纏い、身を竦ませる様な視線を持って睥睨する。

 鬼のような形相で、すべてを平伏せんとばかりに強力な意志の持ち主。

 威風堂々、余裕綽々でこの俺の前に降り立つ。


 ――なんて。そんなことは、なかった。


 巨大な影は、それこそ影も形もない。

 圧倒的な魔力など微塵も感じず、当然身を竦ませるような視線は存在しない。

 鬼のような形相は夢幻であり、したがって蚊ほどの意志も見当たらない。


 ただ俺の前には、先ほどの幼女が、精一杯胸を張っているのみである。


 俺の宣言を聞いて大慌てで扉から飛び出したために、幼女は息を弾ませている。

 しかし、そんなことは無視して不敵な笑みを浮かべている。だが、俺に言わせれば、ひきつった頬を隠すように無理な笑みを浮かべているようにしかみえないし、多分間違ってない。

 本人はいたって真面目に、必死に自身を大きく見せようとしている努力がうかがえた。背伸びまでして頑張っているが、足元がふらふらと頼りない。その身長はこの俺の腰ほどまでしか届かず、腰に手を当てて尊大に反り返った姿勢は、残念かな身長差で見上げるようにしか見えなかった。


 …………。

 ……。

 ふと、俺は転生後に初めて寄った村を思い出していた。

 フェルレノと出会った時もこんなノリだった気がする。あのときは、直後にノラウルフが飛び出してきて大いに慌てたものだが、奇しくもノラウルフの立ち位置にいるバースはこっそりと開いた扉から鼻先を出してこちらの様子をうかがっているだけ。

 忠臣バース、という言葉が、空しく脳内でリフレインする。


「よ、よくぞわが前にあらわれたっ! そのゆうき、ショウサン? するぞ!」

 言葉の意味が分かっているのかいないのか、所々発音が怪しい個所がある。俺はそれを指摘せず、黙って見下ろしていた。

「われこそは、このユウダイなる城のマモリテにして、ケルチオ山岳のあるじ! モスクルト・ドトーレ二世であるっ!」

 地名を噛んだというか、舌足らずなせいで発音できなかったのだろう。とにかく、その他を無事に言いきった幼女は、その表情に僅かな満足感を浮かべて、自身に酔っていた。

 ……この山岳には、間抜けしかいないのか?

「ああ、チェリコお嬢様……立派になって……!」

 鼻先だけしか登場していないバースが、幼女の名前を暴露しつつ、涙声で感極まっている。

 ……この山岳には、間抜けしかいない。

「おい、チェリコ」

「え! なんでわたし――あ、われの名をしってるの?!」

「どうでもいい。それよりお前、伝言の内容は貴様の本心か?」

「伝言?」

「忘れたとは言わせんぞ、この非凡なる俺は一字一句暗記しているからな。お前は確かにこう言付けたのだ、――死ね。人間の魔王なんざ――」

「わおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおんっ!!」

 突如、バースが絶叫しつつ扉から飛び出し、俺にタックルを仕掛けてきた。

 チェリコが驚いている横を通り過ぎ、俺に触れる寸前で、当然だがその首根っこを掴んで捕獲する。

 決死の形相から一転、ぐったりとぬいぐるみのように生気のない顔をして大人しくなったバースの様子に、俺の勘が働いた。

 そっとバースの耳元に口を近づけ、囁く。

「犬」

「わん」

「あの伝言を考えたのはお前か?」

「あふぅ、耳に息吹きかけられたら、バースもうカ・ン・ジ・る・のっ」

「次にふざけたことを抜かしてみろ。全身の骨という骨を全てへし折って毛皮をゆっくり剥いでゴミ袋を作って貴様を入れて海に捨てる」

「そうですっ! 私が考えましたっ!!」

「ねぇ、何のお話してるの?」

「少し待て。――嘘吐きの犬。これ以上俺を怒らせたくなかったら、詳しく話せ」

 俺とバースの会話が気になったのか、チェリコは素の表情で無防備に近づいてきたが、それを手で制する。

 丁寧語になったバースは、自由に動く手足と尻尾を使い、身振り手振りの必死の釈明を始めた。

「じ、実はドトーレ伯爵は――、お亡くなりになりました!」


(2)


 伯爵は死んだ。

 つい先日、前魔王がヨーゼフに殺された時に護衛の任務についていたらしい。護衛の魔族は他にもたくさんいたが、逃げ遂せたのは極僅かで、後はほとんど殺されたという。

 モスクルトの城はここよりずっと東にあるそうだが、モスクルトの手下だった魔族のうち力のある二人が結託、キャッスルジャックしたようだった。

 幼い娘であるチェリコにはまだその事実は伝えられていないようだが、城を追い出されたこと、敬愛する父がいつまで待っても帰ってこないので、おおよその事情は察してしまっているのだという。

 ……なるほど。チェリコの先ほどの奇妙な名乗りは、亡き父の姿を真似たというところか。

「ふーん。大体わかった。で、なぜ俺を挑発するような真似をした?」

「それは……、そうすれば、きっと魔王さまがこちらへ来てくださると考えたのです」

「ならば挑発などせずに、そう頼めばいいだろう。素直に言えば話を聞いてやらんこともなかったぞ」

 心にもないことを嘯く俺。過ぎたことなら何とでも言える。

「どうせ俺の助力でも当てにしようとかその辺だろう?」

 バースがうっと唸る。見透かされた、というような顔をしているが、見透かされないと思うほうがどうにかしている。

 バースの計画はこうだ。

 俺を挑発し、城だと言い張って山小屋に連れてくる。味方にして城を奪還する。以上。

 今どき幼稚園児でももっとマシな計画を思いつくだろうに、所詮脳ミソのサイズもオオカミだということか?

「俺を挑発したメリットは、ここに来ること。だが、リスクとして、貴様らを滅ぼして俺の力だけで城を乗っ取るってことは考えられなかったか?」

「大丈夫です! チェリコ様がいるので!」

 俺は僅かに視線を動かし、チェリコを見やる。

 チェリコは伯爵のフリなど忘れてしまったのか、秘密の話し合いをする俺とバースをうらやましそうに見ていた。

「まだ? 私も仲間に入れて!」

「悪いがもう少しだ」

「ぐぇぇ……」

 これは無意識だが。バースの首の締め付けが強くなってしまったようだ。

「チェリコが、何の役に立つと思っているんだ?」

「か……、か……ゲフ」

 苦しそうにバースは呻く。締めすぎたかもしれない。

 僅かに緩めると、バースは深呼吸した後に、何故かニヤッと笑った。腹立たしい。

「チェリコ様が、可愛らしいからですよ!」

「なん……だと……」

 俺が絶句しているのを何と受け取ったのか知らないが、肯定的に受け取ったのだろう、バースは水を得た魚のように勢いよくまくし立てる。

「愛らしいお姿! 汚れを知らない瞳! すべすべのお肌! ちっちゃな手のひら!」

「……」

「駆け寄ってくる甘えた表情に、私胸がドキドキ、破裂しそうです」

 この場で破裂させてやろうか。

 などと俺が真剣に考えている間も、バースはデレデレした表情でだらしなくチェリコの美点を挙げ続ける。

 髪の毛一本から血筋に至るまで、聞いてるこちらの頭がおかしくなりそうなほど褒めちぎった後、バースはドヤ顔で俺を見た。

「で、どうです? 魔王様も一緒に、チェリコお嬢様に尽くしたいとは思いませんか? お城を奪還したら、きっとチェリコ様もお喜びになりますよ?」

「――ふんっ!!!」

 音もなくバースの姿は消え去った。はるか大空、オゾン層まで突きぬけろとばかりに真上に放り投げたのだ。下手すると帰ってこないかもしれないが、ドヤ顔変態犬なら帰ってこなくても問題はないだろう。今、初めて全力全開で投げた。

「あれ? バースちゃんは?」

「星になりたかったらしいから、そうした」

 不思議に小首をかしげているチェリコの質問を適当に返しながら、さてどうするか悩む。

 この期に及んで、チェリコと勝負しようなどとは当然思わない。

 チェリコとバースに手を貸すかどうか、だ。

 落ちぶれた家系など、前魔王崩御の今、探せばそこら中にいるだろう。厳しい言い方になるが、このチェリコのモスクルト一族も、そんなありふれた悲劇の中の一人だ。

 俺が引き受けるのも、あまり乗り気ではない。フェルレノだけで手一杯なのに、これ以上面倒くさそうなやつを身内に引き入れたくはない、というのが、偽らざる俺の本音だったりする。

 だが、これは人間対魔族ではなくとも、魔族対魔族の構図だ。十分に魔王の職務の範囲内だろう。これからはこの非凡なる俺が魔王として統括するのだから、そういった争いは起きないように尽力すべきである。それは分かっているが、しかし現実問題、前魔王崩御の今、魔族の派閥が大なり小なり荒れるのは、もはや仕方がない。

 しかも、この問題は城を奪還したからといって、すべて丸く済むものでもない。城の王座に据えられるのが血筋だけの幼女では、何度だって反乱は起こるだろうことは容易に想像がつく。実力主義の魔族の考え方だ、血筋などほとんど役にも立たないかもしれない。

 一番手っ取り早いのは、こいつらに泣き寝入りしてもらうことだが。

「ねぇ、お兄ちゃん」

「ん? 俺か?」

 見ると、考え事をしていた俺の服の裾が引っ張られている。チェリコは長い間相手にされなかったのが不満なのか、少しむくれていた。

「遊んで」

「断る」

 秒以下で返事する。簡潔極まりない俺の返事に、チェリコはくしゃ、と顔を歪めた。

「やだぁー……! 遊んでよぅ」

「だが、断る」

 目は一瞬で充血し、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。子供と女性の武器だろうが特権だろうが、この非凡なる俺に泣き落としが通用すると思っているのか? 過去、もっと悪質な美人局にハメられかけた経験のあるこの俺に、隙はない。

 美人局とは少し違うが、女性関連で一番酷かったのは……、電車で一車両離れた女から尻を触られた、と騒がれた時か。どうしたものかとさすがに困ったアレに比べれば、この程度何も感じない。


「うぁぁあああんっ!」


 チェリコはとうとう声をあげて泣いた。さすが子供と言うかなんというか、一切の妥協がない泣きっぷりだ。

 人間は大人になるにつれてほとんど泣かなくなる。感情の制御が上手く出来るようになるし、泣くほどまでにストレスをため込むことがなくなるためだ。大抵の大人は自分なりのストレス対策を見つけているし、そうでなくても泣くことで発散するのは恥だという認識が強い。

 しかし、子供にはそんなものがない。

 恥も外聞もなく、泣きたいから泣く。嫌だから泣く。悲しいから泣くし、辛くても泣く。

 それを眺め、俺の中に芽生える感情は……苛立ち。

 心がざわざわする。

 進む者は泣く暇なんてない。常に上を目指すためには、泣いている時間があったら次にどうすべきか考えなくてはならない。考えて、考えて、考えて、何よりも誰よりもずっと考えて、最後には自分が勝つように周りを、世界を動かすのだ。誰でもない、自身の手で。

 別に自分の思想まで他人に強要するつもりはない。この年頃の子どもにそれを実践しろといっても無理な相談だとは理解している。

 ――否。

「ふぇええぇんっ!」

 俺はこのくらいの年ですでに実践していたから、最初から無理と決めつけるのは酷か。

「チェリコ、これ以上泣くな。それは無意味だ」

「ぅ……?」

 意味がわからなかったのか、不思議そうな顔をしている。しかし話しかけられたことが嬉しかったのか、意外にもすぐに泣き止むチェリコ。

 俺は膝を折り、チェリコと視線を合わせる。泣きたくても泣かない真っ赤な目は、遠い昔の自分を見ているようだった。 

「泣いてもいいが、泣き続けるのはやめろ。それは無意味だ。少し泣いたら沢山考えろ。どうしたら自分が泣かなくてもいいか。自分を泣かせたやつを見返すためにはどうしたらいいか。自分が高みにあるために、どうすればいいか。常に考えるんだ。わかるか?」

「……わかんない」

「言葉を覚えるくらいはできるだろう。今の言葉を忘れるな。泣いてばかりでは、世界は何も変わらない。変えるためにどうすればいいか、考えろ」

 同じことを繰り返し伝える。チェリコの中に意味として通じなくても、その意志が通じればいい。やがてチェリコはぐずっていたのをやめ、まっすぐに俺を見返してきた。

「遊んでください、お願いします」

 ……いきなり下手に出たな。まぁ、元手はタダだし。俺も子供のころは拝み倒しをよくやった。大方、失敗するがな。

 だがまぁ、今回はサービスだ。初めてだし、こういうのは成功の味をしめたほうが習得が早い。泣くよりも有効な方法を、交渉という概念を知るべきだ。

「よし。いいだろう。この俺が全身全霊で遊び倒し尽くしてやる。ただしその方法でお前の願いを聞くのはこれ一回きりだ。次はまた、別の方法を考えるようにするんだな」

「うん!」

「よし。では――あ、そうだ。その前に」

 俺は一度言葉を区切り、その場で垂直跳びをする。

 百メートルほど跳び上がると、丁度遥か上空から落下してきたバースと目があった。もっとも、その目は白目を向いており、すでに気絶していることがうかがえた。髭が数本凍っている。本当にどのくらいまで行ったんだ?

 俺は翼を用いて反転し、自身も自由落下を始める。俺の横をバースが通り過ぎるタイミングで、速度を合わせるように翼を使って急降下、バースを相対速度ゼロで掴む。

 そのまま、ゆっくりと軌道を変えて水平に飛ぶ。

 バースはぐったりしていたが、気絶しているだけなのだろう。

 ……しかし、あと数秒、思い出すのが遅かったら間に合わなかったかもしれないな。

 山肌をギリギリで滑空し、途中で反転して山小屋に向かう。その間、バースの全身を軽く触れてチェック。うむ、問題ない。

 山小屋の前でオロオロしているチェリコの前に降り立った。

「あ、戻ってきた! バースも!」

「そうだ、バースだ。疲れているみたいだからな。そっとしておいてやろう」

 チェリコがバースを見て嬉しそうな声を上げた。やはりバースとの仲は良いらしい。ただ、バースの本性を知っている俺としては一抹の不安を禁じ得ない。

 俺は山小屋の中に入り、チェリコには見えない角度であることを確認してからバースを適当にその辺に放っておく。木製の床板に全身を打ちつけたが、バースはピクリともしなかった。

 ま、心臓が動いていることは確認したから、大丈夫だ。

「さて……何をして遊びたい? この俺が遊んでやるのだ。いままで出来なかったような遊びをリクエストして構わんぞ。一個だけ、全力で実現させてやる」

「じゃーねー……」

 チェリコは小さな体をいっぱいまで使って悩む。具体的には、しゃがんだり跳ねたり走ったり、なにか動作しながら考えているのだ。……何の意味があるのかは知らないが。


「お城! お城の探検したかったの!」

「……………………っ、そうか」


 かくれんぼとか、おままごととか、空を飛びたいとか。

 そういうのが来ると思っていたんだが。

 男に二言はない。俺のプライドが許さない。

 しかし、今ばかりは俺の発言の迂闊さを呪わずにはいられなかった。

 チェリコが思ったよりも素直だったから、気を良くして大きく出てしまったが……、もしや俺の弱点は、自分自身か?


 結局。

 俺はチェリコを抱きかかえ、本当の城へ向かうことになった。

5/22 17:45

一部修正。

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