第一話 赤い実
目覚めた俺に足りないものは、服と食糧。ついでに武器。それから何より、情報だ。
二度目の転生とはいえ、今回は誰もいない。ほとんど情報はゼロだ。
とりあえず、周囲の状況を探る。
百八十度すべてを木々に囲まれ、目の前にはあまり大きくはない湖。小学校のグラウンドほどもないだろうその湖は、俺が歩いた部分の水底の砂が足跡として分かるくらい、水がきれいに澄んでいた。
「良かった、夢中で水飲んでたからな。……おかしな水を飲んで転生一日目でくたばったら、さすがに笑えない」
ひとりごち、俺は空を確認する。まだ日は高い。いくらか歩き回る時間は十分にありそうだ。
俺は今回自分が転生した湖を最後に一瞥すると、湖に流れ込んでいる川沿いに歩き始めた。
川に沿って歩く理由は大きく二つ。一つは、単純に飲み水の確保が容易にできるためである。これは遭難の時にも使える、必須テクニックである。ただし、川の水が飲める地域限定だが。
そして、大事なのはもう一つ。水のあるところには自然、生き物が集まる。その中には当然、人間も含まれている。つまり、森の中を闇雲に歩き回るよりも、よほど高確率で人里に出くわす可能性があるのだ。農業はまず水からの原則は、どんな世界でも共通であろう。
俺は全裸のまま、川沿いを速足で歩く。疲れないようにペースに注意しながらも、木々の向こうに人工物が見えないか意識しながら歩く。時間も距離も不明なゴールの見えない行軍は、かなり精神的に負担がある。この先にもし人と出会わなかったら、いくら非凡なるこの俺でも、さすがに疲労を感じるであろうことは想像に難くない。
――。
――――。
かなりの時間歩いた気がするが。
一向に、村のようなものは見えない。どころか、川が段々と細くなってきている。これはまずい傾向だ。川が細くなっているのは地理的な要因で仕方ない。だが、こうなると農地的な意味での川の利用価値が一気に減る。この先に人里がないことも、そろそろ覚悟しなくてはならない。
と、そこまで考えて、俺はふと嫌な可能性に思い至った。
人がいるのかどうかも、まだ分からない。
たまたま俺が人として転生しても、その世界に人間がいない場合だってあるのかもしれない。少なくとも、ないとは言い切れない。
もしそうだとしたら、今の俺の行動は果てしなく無意味だ。
かなり思考がマイナスに傾いてきたころ、俺は行き止まりに出くわした。道が途切れている。というか、崖だ。ちょろちょろと小川とも呼べぬ規模まで小さくなった川は、俺の足元の岩から数十メートル下の地面に向けて崖を伝うようにして落ちて行った。
「くそ、魔王だったら一足飛びだったのにな」
今更ながら、あのバカげた肉体のスペックを惜しむ。というか、魔王だったならば俺はその場で垂直跳びでもして、上空から周囲を探って容易に人里を見つけることができるだろう。
翼もあることだし。
だがまぁ、無いものねだりをしていてもしょうがない。俺は崖を降りるために、見える範囲での最短ルートを考え始めるのであった。
結局、何度か転びそうになりつつ俺は斜面の緩い所を探し、崖の下にたどり着くことに成功した。が、正直かなり疲れた。しかも川だった水は岩のくぼみに流れ込み、地下に染みて行ってしまっているらしい。
……日もだいぶ傾いているし、そろそろ野宿の準備が必要になるだろう。
とはいうものの、裸で荷物もなし。準備といっても、寝るのに良さそうな太い枝を探すことくらいしかすることがなかった。一応、野獣が出る可能性も考慮して地面よりは木の枝の上で寝る方が好ましいが、もし夜が冷え込むのなら落ち葉でもなんでも集めて、布団の代わりを作る必要がある。もしくはやわらかい土を探して掘るか。いや、それはシャベルもないのでは人一人入る穴を作るのに何日かかるのかわからないうえに、体力の消費が激しいため却下だ。
結局俺は、太い木の枝の上で、葉のよく茂った木の枝を体に乗せるようにして眠った。当然のように保温の効果は期待できなかったが、これも野獣対策と思うことにして無理やり寝た。
朝、まだ日が出る前に起き出す。野獣に襲われる気配もなく、平和な夜だった。
だが、転生してからこっち、口にしたのは水だけ。起きた瞬間に腹の虫が鳴いても、それは仕方のないことだった。空腹を我慢して、妙な姿勢で寝たために固まった体をほぐす伸びを一つ。
夜間寒すぎるということはなかったが、さすがに少し体が冷えている。運動による発熱と、人里探しを兼ねて俺は再度歩き出した。
俺は時折視線を上げて、食べれそうな木の実がなっていないか確認しつつ進むようにした。とはいえ、そうそう都合よく見当たるはずもない。
収穫はないまま日が昇り、俺の空腹もピークに達した。
「くそ、このままでは餓死する……!」
力なくつぶやくも、視界はひたすら木と草と土のみ。またに見かけるキノコに酷似した植物があったが、元の世界でも毒有りが多いキノコを食べる気は起きなかった。
あれはいわゆる死亡フラグだ。
そろそろ真剣に雑草を食べようかと悩み始めたとき、俺はそれを見た。
「リンゴだ……」
いや、リンゴよりも一回り小さい。冬みかんサイズの赤い実だ。あれが無毒である保証はない。だが、いかにも食べることができそうな見た目に、俺は我慢がきかなかった。
ただし、それはかなり高い木の上になっている。
無駄と知りつつ、ジャンプする。思いのほか高く飛んだが、やはり魔王の時のように百メートル越えの垂直跳びなど無理で、その百分の一程度しか飛びあがれなかった。
「くそ、人類は不便だ!」
人間、一度手にしたモノがあると、すべてその基準で他の物事を決めようとする。いくら非凡たる俺でも、過去に十メートルジャンプができないことを悔やんだことはない。それが普通だからだ。しかし俺は魔王の経験もある男。たかが一メートルのジャンプに少々の不満を持つことは仕方のないことだ。
だが、別に俺が飛び上がる必要はない。人類はそうして発展してきたのだ。人類が速く走らずとも、その分機械が速く走ればいい。
俺が飛ばなくても、別の物が飛べばいい。
俺はすぐ近くに落ちていた手頃な大きさの小石を拾うと、赤い実を狙って投擲した。かなり近くを通るが、惜しくも当たらない。
非凡たる俺は野球の才能も併せ持っているのだ。たかがみかん大の的の一つや二つ、数えるうちに打ち落としてくれるわ――!
「よっ」
こんな掛け声も懐かしいな、などとリラックスしつつ、目標をしっかりと確認する。風はない。
肩の力を抜き、腕のしなりを効かせて――投げるっ。
純粋な筋力に加えて遠心力も合わせた小石は、おそらく百三十キロ近い速度で赤い実に一直線に迫る。確実に当たるコースだ!
「ふ。さすがこの俺。わずか二発で当てるとはな」
だが、俺がそう自嘲気味に漏らしたと同時、赤い実は粉々に砕け散った。当然、小石の威力が強すぎたためである。
お、俺としたことが……、こんなことが予想できなかったとは……。
赤い実が取れなかったことよりも、その現実に打ちのめされる俺。狙った食い物を破壊するなど、サルにも劣るではないか……。
まだ赤い実はいくつか実っているが、こうなると枝を投石で破壊するか、俺が木登りするかのどちらかになる。
だが、木とは構造上、丈夫な繊維のようなものでできているため、千切れそうになってもなかなか折れはしない。古い乾燥した木ならともかく、若くみずみずしい木の枝を投石で折るのは至難の業だ。
というかそもそも、そんなに悠長にやってられん。
俺は木の枝を登る作戦に決めた。
赤い実のなる木はあまり太くないが、細くもない。おそらく元の世界にいたころよりも体重が増加しているだろう今の体でも、折れずにある程度までは登れる強度はあるとみた。
俺は簡単に頭の中で上るコースを選択すると、ジャンプで手の届くぎりぎりの枝に狙いをつけてしがみついた。懸垂と逆上がりの要領で枝の上に立ち上がる。
「……かなり揺れるが……いけそうか」
立ち上がった枝の上はゆらゆらと揺れ、かなり不安定だが、しっかり俺の体重を支えられている。
小学生新体操スクールクラブ一の期待の星と言われた非凡なる俺には、そのしなりを利用してさらに跳躍することができる!
「ふははははは」
飛び上がった先の枝は、最初の枝よりも若干細い。木の幹に近い、一番太いところをつかみ、握力にものを言わせて体を引き上げる。
ハングリー精神が俺に力をくれる!
ここまで、およそ六メートルほどだろうか。俺の長身と跳躍力あってのハイペースだが、なかなかどうして上手くいく。
赤い実がなっている木の枝は、俺が手を伸ばすよりもあと一メートルほど離れている。あの枝を折るか、もしくは手繰り寄せるかして赤い実を入手すれば、固形物を食すことができる。
だがしかし。
一メートルのジャンプは、今の体勢だと不可能だ。なぜなら足場がほとんどなく、俺は木の幹に手をつきつつ、片足で立っている状態だからだ。さらに、赤い実のなっている枝はかなり細く、もし手が届いたとしても、枝の根本でも俺が体重をかけたら折れる危険がある。その場合、俺は地面までおよそ七メートルの自由落下だ。
つくづく魔王の体が惜しまれる。
俺は仕方なく、屈んで今立っている木の枝を引き寄せる。中ほどで折り、べりべリと引き千切る。枝を入手した俺は、余分な枝を折り一本の棒を作った。およそ二メートルほどの棒だ。先端が細いため、うまくいけば赤い実だけを落とすことができる。
……屈辱だ。このような無様な策しかとれぬとは。
食べるものを用意する苦労を味わいつつ、俺は棒を振り回して赤い実の少し上、くっついている芯の部分を狙う。先端が細くてあまり威力がないのか、なかなか落ちなかったが、十回ほどぺしぺしやっていたらプツっという音とともに赤い実は落下していった。
この高さからなら、赤い実は割れても木端微塵ということはないだろう。少しでも食べる部分があるなら十分だ。
そう思い、俺は赤い実の行く末を見守る。と、そこにはいつの間にか、帽子をかぶった子供がいた。
「なん……だと……?」
俺のつぶやきに合わせるように、子供は落ちてきた赤い実をキャッチする。帽子のつばで顔は見えないが、口がニヤッと笑ったのがわかった。
「ありがとな、裸のにーちゃん!」
「貴様……! この俺の食料を奪うとは、いい度胸だ……!」
俺の言葉を最後まで聞かず、子供は走り出す。ぶちっと、俺の頭の中で何かが切れる音がした。
「ふんっ」
六メートルの自由落下? 構わん、今あの赤い実をもっていかれたら、本気で餓死する。
だったら、落ちて死のうが餓死して死のうが一緒! そして俺はやつを許さん!
一瞬の浮遊感の後、俺の体は重力に引かれて地面に一直線に落ちる。近づいてくる地面。足に受ける衝撃。それらすべて――、
「覚悟の、上っ!」
極度の集中状態。一瞬だけ時間が停滞したように感覚が引き延ばされる。
背後には木の幹。俺の向いている先には、逃げていく子供の後ろ姿。ならばすることは、一つだけだろう。
「――っふ」
息を吐く。全身をひねるようにして木の幹を、蹴るっ! ただの蹴りにしてはやけに大きい衝撃音とともに、俺の体が横に流れる。
落下寸前で、真下に落ちるだけだったエネルギーを水平、真横に飛び出すエネルギーに変える。もちろん着地の一歩目はかなりの衝撃が足に来たが、耐えれる。
俺は着地の足で踏み出しを兼ね、そのままの勢いで子供を追った。
木を蹴ったときの衝撃音に気づいたのか、前を走る子供が振り返る。駆け出している俺を見て、子供は焦ったように速度を上げた。俺が下りてくるまでに逃げ切れると踏んでいたのだろうが、そうはさせん。
「た、助けて! 裸の変態が追ってくる!」
「変た――!? おのれ、ただでは済まさん!」
言葉とは裏腹に、誰に助けを呼んでいるんだ? という疑問が、俺の頭にスッと入り込んでくる。そうだ。この子供を追っていけば、人里に出られる、ということだ!
ニヤリ、と俺は笑みを浮かべる。ますます、あの子供に逃げられるわけにはいかなくなった。
幸い、走る速度はこちらのほうが上。
余裕で追いつける、と思った瞬間、子供の姿が目の前で消えた。
「――なっ?」
思わず驚きの声を上げてしまう。馬鹿な、エアーガンどころかガスガンの連射された弾をすべて見切る動体視力を持つこの俺が、見失っただと?
速度を落としつつも子供が消えた場所へ駆け寄り、周囲を調べる。何か痕跡があると思いきや、俺は何も見つけることができなかった。足跡は落ち葉で見えにくくなっているが、確かにここまで走ってきたような落ち葉の乱れはある。確実に、ここで消えた。
完全に、姿を消した?
いや待て。おかしい。
そんなことはできるはずがない。仮にできたとして、なぜ走り始めてからすぐに姿を消さなかった? 子供の焦る様子、不愉快な救援を求むセリフも、おそらく本気。あれがすべて演技で、俺をからかって遊ぶだけだったというならなかなかの食わせ者だが――どうもそういう雰囲気じゃなかった。
ならば、この場所でしか消えることができなかった、と考えたほうが自然。だから最初に、ここに何か仕掛けがあるのではないかと思ったが、それもない。
つまり、完全に消えた。
冷静になって考えろ。人が消えるわけがない。そんな魔法じみたこと――。
「いや……そうか、魔法か」
思えばここは異世界。魔法が存在してもおかしくはないのだ。自分で言った言葉にヒントがあるとは思っていなかったが、これは困ったことになる。もし本当に魔法を使われたのだとしたら、俺には手の出しようがない。この世界に魔法がある可能性は考えたほうがいいにせよ、どんな魔法を使われたのかもわからないようでは、俺には対策のしようがない。
いや、待て。
仮に魔法だとしても、最初の疑問は残る。つまり、なぜ最初から魔法を使って消えなかったのか、だ。いや、あの子供のセリフからして、おそらく子ども自身は魔法が使えない。だからこそ、助けを呼んだのだ。俺には見えない、魔法を使える何者かに。そして、すぐに姿が消せなかったからこそ、その後もしばらく俺から逃げる必要があった。いや、がむしゃらに逃げているというよりも、まっすぐここへ向かっている様子だった。森の中を逃げるなら、まっすぐ逃げるより木の陰に隠れるようにジグザグで逃げようとは思わないだろうか。つまり、あの子供の目的地はここだった。
そこから導かれる結論は、一つ。
魔法を使える誰かは、何かしらの理由でこの場で、子供の姿を消えるようにしたのだ。この場でなければいけなかったのだ。
子供が消えた方向に、俺も同じように向かい合って立つ。目の前に広がる景色は、木々のまばらな、何の変哲もない森。
だが俺の推論が正しければ、あの子供は、今も変わらず――
「そこに、いるな」
瞬間、俺の視界が滲む。シャボン玉のような透明な膜が見え、それは空気に溶けるように消えていった。
そしてその向こうに、人が現れていた。今見えるだけでも十人以上。家もある。
何の変哲もないように見えた森の中に、村があった。
すべての住人が、俺のほうを見つめている。年齢は子供から年寄りまでバラバラだが、みんな怯えたような目だった。
――裸だからか?
と、さきほど俺から逃げていた帽子の子供を見つけた。そいつはこの中で一番年老いている老婆の後ろに隠れるようにして、やはり俺のほうを見ている。赤い実はまだ手に持っていた。目が合うと肩を震わせて老婆の陰に隠れた。老婆もまた子供を守るように俺の視線に体を割り込ませる。
しばらく俺は黙って村を観察していたが、誰もアクションを起こさない。このままでは全裸の俺が村人の注目を一身に浴びるという不快な状況が続いてしまう。
仕方なく、俺が村に向かって一歩を踏み出した。
途端、家々から剣や槍を構えた男が飛び出してくる。その数は十人。
「おのれ、魔物め! 我らの村には入らせんぞ!」
「人の姿をしたところで無駄だ! 正体はわかっているんだ!」
口々にわめきながら俺を取り囲んでいく。ただの全裸の男への対応にしては妙に物々しい雰囲気だと思ったが、その理由は男たちの言葉から推測すれば簡単にわかった。
なるほど。俺が人間ではないと考えているわけだ。つまりこの世界、魔法が使えるだけでなく魔物もいるわけだ。
「はっはーん」
俺は腕組みして考える。そしてさりげなく周囲の男たちの構えを観察した。
この男たち――ただの素人だ。ふらふら落ち着きのない構えを見ればわかる。
体力のある男だからという理由で武器を持たせられているのだろう。非凡なる俺にかかれば、一対一なら十人連続でも負ける気がしない。ただし、同時に十人は、すこし厳しいな。
「おい」
俺は武器を持った男の一人に話しかける。
「お前、その剣を両手で持つのはやめろ。それは柄の長さと刃渡り、どちらを見ても片手剣だ」
「うっ」
「そこのお前。槍をもつ時は常に切っ先を相手に向けておけ。素人丸出しのお前じゃどうせ振っても無意味だ」
「えっ」
「それからお前! カッコつけてるつもりか知らんが、二刀流はやめておけ。その初々しい構えを見るに、どうせ一本づつしか使えん。その分誰かほかのやつに渡してやるんだな」
「く、くそ」
さて、と俺はゆっくり一歩を踏み出す。俺の根拠も何もないただのハッタリが功を奏したとは思えんが、男たちを含めて村人は、緊張した面持ちで俺の行動を見守っていた。
俺はゆっくり老婆に歩み寄ると、片手をつきだす。
老婆は皺で黒目しか見えない眼をいっぱいまで開けて、緊張しながら俺の手を見つめた。
「婆様!」
「おのれ、二人から離れろ!」
俺が老婆と子供をどうにかしてしまうのではと焦った男の一人が、短剣を片手に突っ込んでくる。
俺は足音から距離を推測すると、男が武器を振りかぶるタイミングに合わせて男の懐に潜り込んだ。そして、足腰に力を入れてそのまま当て身を決める。男は自分が突っ込んだ勢いで吹き飛ばされ、もんどりうって呻いた。
「さて、……そこのお前」
再度老婆に向き直り、俺は唇の端を歪めて笑う。
「その赤い実を、今すぐ返せ」
老婆の背後にいる子供は、びっくりしたような顔で俺を見返した。
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