第二十一話 リハビリ
久しぶりの週内更新……。
城門を出たところの露天で買っておいた大陸地図(50ガルド)が尻のポケットに入っているのを確認してから、まっすぐ南へ歩くこと二時間。日はすでに高いところに上っていた。
まだ城壁が見える距離だが、問題は俺が勇者オリオンであると分からない距離であるかどうかであり、この時点でそれはクリアされたと判断していいだろう。城門付近の人間は、もう砂粒程度の大きさにしか見えない。
ちなみに、服装は地図と同じく、城門付近の露店で買ったごく一般的なマント(30ガルド)を着用し、目立たないように注意している。別売りのフードマスク(28ガルド)で顔も隠し、変装はバッチリだ。
準備はできている。
走る。とうとう走る。
がむしゃらに走る。己の最高速を出す。
歯を食いしばってこれ以上ないほどの速度で全身全霊で走る。
クラウチング・スタートの構えを取り、心の中でカウントダウン。
三、二、一、気合いを入れて、
「っっっっっっつ――――ずぁぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!!」
爆音。
それが咆哮ともいえる絶叫によるのか、踏みだした一歩目が大地を割った衝撃によるのかは分からない。巨大なクレーターが足元にできた気がするが、それを認識する前に身体は前へ、前へ進みだしている。
ギチギチ、と筋肉の軋む音がする。いや、すでに筋肉ではありえない力を生みだす身体。
十歩も走らないうちに、元の世界で高速道路を走った時を思い出した。地面を流れていくのは大地ではなく、茶色。地面であると分かっていても、目で追いきれるものではない。
少しその速度を保つが……まだ余裕だ。もっと早く走れる。
脚にぐっと力を込めて、さらに、蹴る。大地を蹴るっ!
一歩ごとに力強く躍動する肉体は、上限など知らないかのように天井知らずに速度を上げていく。
一歩、足が空回りをした。身体がまだ跳ねている最中に、次の足を踏み込もうとしているせいだ。気付けば、体の重心が上がっている。これは、コケる。
案の定、バランスを崩して前のめりになる。が、走りだしていた足は大地を強引に蹴り飛ばしながらも踏み締め、奇跡的に次の一歩を可能にした。
――なるほど、前のめりのほうが、早い。
転ぶ寸前の地面に鼻を擦りそうなほどの前傾姿勢は、しかし腿上げの要領で繰り足を体幹に引きつければ、身体を起こすよりもよほど上等に走ることが出来た。
脚は……これが限界だろう。もう下半身に余力はない。
だが、まだ早く走れる。俺は腕を振っていない。
速度と体勢のバランスが取れたならば、腕を振る。脚に合わせ、限界まで振る。速く走るために使う脚力が強ければ強いほど、それに見合う腕の力が必要で、だからこそ全力で、振るっ!
風切音と大地を踏み砕く音だけが響く世界で、自身の速度を確認する。
これが限界。今の俺にできる目一杯。
感動的なことに、元の世界に比較できる乗り物がない。時速にして何キロあるのか分からないのだ。まさに体感速度ではあるが、すでに音速近いはず。
その状態で、速度を加減する。遅くしたり、早くしたりを何度も繰り返す。角度を変えて曲がってみたり、
「――うりゃっ!」
無理矢理方向を変え、直角に軌道を変更したり、180度ターンして真逆へ走りだしてみたりを何度か繰り返した。
辺りに何もない南の平原だから、ここまで気兼ねなく動けたのだ。やはりいきなり東の森林に行かなくて正解だったようだ。
自身の感覚で、速度と軌道を調整する。
この瞬間、ようやく、いままで何故自分が壁にぶち当たったのかが分かった。
ハンドルのないドラッグレース専用車がニトロブースターを点火しアクセル全開で市街道を走ろうとするようなものだ。俺にとって「走る」という行為は、すでにしてそのレベルのことを言うに等しい。さらに運転手である俺は、そもそも車のことを乗用車だと思っていた。
必然、突っ込む。幼児にすら分かる帰結だ。
謎が解明された感動に、思わずニヤリとする俺。
そして、再度、前方を確認した俺が見たものは、
「ん?!」
山、だった。
ぶつかる。そう感じだ。
山にぶつかる、という認識が、常人ではすでに間違いだろう。しかし、現に眼球から情報を得た脳は間違いなくそう判断し、そして俺の身体はほぼ反射的に、可能な限りの対処を始める。
わずかに重心を後ろに移動させつつ、足を、思い切り踏ん張る――!
「ぐえっ」
巨人が俺の背中を踏みつけたのかと思った。横隔膜に押された肺から空気が溢れ、汚いうめき声をあげる。勾配の急な坂道に上った瞬間、俺の背中には確かにそんな感覚があった。そしてその圧力は下腿に注がれ、辛うじて地面に押し流す。
バカみたいな圧力に耐え抜き、俺は坂道を駆けていた。脳の片隅では、すぐに先ほどの現象を理解しようとして、すぐに既知のものだと理解に至る。慣性の法則だ。車に乗って急カーブした人ならだれもが経験あるだろう。身体が横に押されるような感覚。あれが、今上下の差で起きたのだ。
……とかなんとか考えている間に、目の前が暗くなる。
木だ。
と認識するほうが早かったのが、顔面から突っ込んだほうが早かったのか。
首が、折れそうなほどの衝撃。いや、折れたか? めっちゃ痛い。
だが、俺に身体を心配してる暇などなかった。俺の身体は木のほうをへし折り、吹き飛ばし、そして当然のように自身の足をもつれさせて盛大にコケた。
「――――っっっ!!?」
肩から地面に墜落する。その表現が大げさでないほどの衝撃で肩を破壊しそうになり、しかし全く勢いは止まらない。いくつもの木々を破壊し、地面を抉るように転がって尚、俺の勢いは減速を知らなかった。リアル人体砲弾状態の俺にできることは、両手で頭を抱え、身体を丸め、せめて早く止まるように、と祈ることだけだ。
……情けねぇ。
何本かの木々をまとめて吹き飛ばす衝撃を全身のあちこちに感じつつ、そしてそれは唐突に消え去った。
浮き上がっている、と理解するまで、一秒。
おそるおそる開けた眼下では、高速で木々が流れていく。それでも、山に突入するときよりかは随分と速度は落ちていた。
そして、三秒ほどの滞空ののち、またも地面に激突。
もはや慣れてしまった衝撃を全身に感じつつ、ゆっくりと速度が落ちていくのを感じる。
ひときわ太い木に激突し、それは折れることなく衝撃を吸収し切った。
それはつまり、人体砲弾もといピンポンボールよろしく跳ねていた俺の運動エネルギーをすべて吸収し切った証でもあった。
ようするに、ようやく止まったのだ。
俺はしばらく丸まった姿勢のまま呆けていたが、我に返って飛び起きる。
身体は――、全部動く。
心配していた首の骨も、鈍い痛みはあるがどうやら大丈夫だ。
魔王ボディの頑丈さに呆れるような、感心するような心地で、俺は立ち上がった。
……ふむ、だいたいだが、身体の動かし方は解った。
試しに、目の前にある木々を避けながら走ってみる。
一歩目を踏み込み、次の足が地面を踏む頃にはもう、木々との差は一センチにも満たない。地面を軽く蹴り、方向修正。その先の木々。やはり方向修正。
蹴る、方向修正。踏みこむ、方向修正。蹴る、方向修正。踏みこむ、方向修正。
繰り返すたび、距離と力の入れ具合が分かるようになる。
この練習は、素晴らしく良い。凄まじい速度で経験値がたまるのを感じる。
慣れてきたら、バックステップやサイドステップにも挑戦。物が飛来してくると仮定して、前後左右、時に上下にも跳ねまわる。
動く動く。思い通りに身体が動く!
ふは、ふはははは、
「ふぁーっはっはっはっはっはっはっは!!!!」
コイツ、動くぞっ!
……。
…………。
で。
ここはどこだ?
ひと通り動き回り、後半はもうストレスからなんやらを発散させた俺は、ぐるりと首を回して周りを見る。
が、どうにも見覚えのない山の中ということしかわからない。
尻のポケットに入れておいた大陸地図を取り出し、広げる。衣服はボロボロだったが、幸いこれは落ちたり破れたりすることなく、無事だった。
地図の左上端にあるレベラ王国に指をあて、スススっと南、つまり下に指を移動させていく。
表記の何もない平地が長いこと続き、しかし森のような表記は一向にない。とうとう指先は地図の真ん中あたりを通り、
「……ここか?」
見つけたのは森ではなく、ケルツィオ山岳地帯。
山、か。信じられないが、他に該当する場所はない。
……間違えようがないな。ここだ。
地図の縮尺が間違っていなければ、三百キロほど離れている。
まぁ、仮に亜音速で走っていればそう遠くない距離だ。ほんの……二十分前後で着くのか、おそらくそんなものだろう。
体力の消費としては、そう問題ではない。
さっきの全力疾走なら一時間くらいはいけそうな気がするが……まぁそこは良いだろう。
人目がない山中。やることは一つだ。
俺は上着を脱ぎ、魔力をゆっくりと翼と尾にも流す。
もう何の違和感もなくなってしまった羽根と翼が、普段通りに出現したのを確認し、魔力の訓練に入る。
ちなみに、尻尾が出た瞬間、ズボンが窮屈になった。仕方なく腰のあたりから飛び出させるが、やはり窮屈だ。
これは……、しかしさすがに服の尻に穴をあけるわけにもいかない。
翼ならまだ服装でどうにかなるが……尻尾はどうするか。
地味に切実な悩みを抱えつつも、その問題はとりあえず放っておくことにする。
今からやるのは、当然、魔力のコントロールだ。
まずは、練習がてら腕から。
ダムの水を解放し、川の水流を増やすイメージ。腕は段々と黒味を帯び、金属的な光を放ち始めた。そして、もう来ると分かっていた痛みも発生する。
よしよし。
今度はダムをせき止めていく。代わりに、その魔力量をそのまま左へ。
左腕は一瞬で金属的な光沢をもつ黒に染まった。
これを、右腕と左腕で何度か繰り返す。移動させる割合を変えて、半分移す。さらに半分移す。さらに半分、一気に交換。
腕が黒色と肌色に繰り返し染まっていく、というなかなか気味の悪い光景だが、そこは諦める。
俺に足りないのは魔力をどれほど移動させるか、というバランストレーニングだ。これが素早く正確に出来ないから、魔力を詰め込み過ぎたり暴走させてしまうのだ。
腕の魔力限界量は解った。
それ以上詰め込んでも、痛いだけで周りに漏れてしまうようだった。
同じトレーニングを、脚と眼、耳に行う。
ただ、耳のほうは強化しても周りに誰かいるわけではないので、痛くなる寸前まで流し、戻して、流して、と繰り返すだけだ。
こうして、脚、目、耳など、各部位の魔力限界量を把握した。もちろん、翼と尾も、適正サイズまで流したり戻したりして把握している。
簡単に言っているが、これには一部位に一時間近くかけている。
全身まで終わった頃には、もう日が暮れていた。
うむ。俺、久々に努力した。
後はひたすら素早く、かつ無意識に行えるように訓練するだけだ。今はダムに戻し、別の部位に流し、という魔力移動のほうが早いが、いずれは部位から部位にそのまま流せるように訓練したいところだ。ダムに戻す、という移動を省略させることができれば、速度が全然違うし効率もいい。それが出来るのは、今のところ右左の腕と脚しかできない。
腕を魔力強化するのに、さっきは五分近くかけていたが、今なら一呼吸でできる。精度も跳ねあがりだ。
そして、いやなことを一つだけ理解した。
全身を魔力強化すると、フルメタルアーマーのような黒一色になる、という点だ。
ダサイ。
こればっかりは使わないで良いように立ちまわりたいものだ。
まぁ、一応練習はしておいたが。
気付けば、ずっと遠くから獣の鳴き声がする。
オオカミよりも幾分野太いその鳴き声は、一つがあがるとそれに反応するようにして次の桶が上がり、いつまでも連鎖するようにして止まらない。
いつもなら煩わしい、としか思わなかっただろうが、疲れた俺の身体にしてみればそれは心地の良い眠り歌に聞こえてしまった。
腰を下ろし、適当な木の幹に体を預けて目を閉じる。
そういえば、意図的に翼と尾を出したまま眠るのはこれが始めただな、と益体もないことを考えつつ、睡魔に身をゆだねた。
翌朝。
目が覚めると、ノラウルフによく似た魔族が、俺の腕に噛みついていた。ただしサイズはノラウルフよりもふた回りほど小さい。
懐かしさを覚えると同時に、獣くさい臭いで頭が覚醒する。
敵意を持って力を込めて噛んでいるのか、甘噛みしているのかわからない。
たぶん、甘噛みだとは思うが……。
魔族だと感じたのは、そのちっこい身体から微量ながら魔力を感じるためだ。
「で……、一体、何がしたいんだお前?」
俺が起きたのにようやく気付いたのか、オオカミ……というより、なんか犬っぽい魔物は口を腕から放して元気よく吠えた。鳴き声が完全に、
「ワンっ!」
犬確定。
嬉しそうに尻尾をフリフリしているが、悪いが何が楽しいのか全然、まったく、これっぽっちも分からない。
今はフェルレノもいないし、誰も通訳してくれる人がいないんだよなぁ。
必死にわんわん吠えているが、俺からの反応がないからか、次第に意気消沈していく犬。
……いやまて。
聴覚強化が俺にはあるじゃないか。
耳に魔力を通し、犬の魔物に意識を集める。
<なあ、もしかして全然まったくこれっぽちも聞こえてない?>
犬の口はさきほどと同じように、ワン、としか動いていないが、何故か俺の耳にはそう言葉として聞こえた。ただし音質の悪いアンプみたいにノイズがある。
なるほど……こうして意思疎通するわけか。
……え、じゃあアレか。聴覚強化はもしかして、魔族なら全員できる技能なのか?
僅かにショックを受ける、俺。別に魔王だからとか、特別なわけじゃないんだな。
ってゆーか、たぶんフェルレノもできてる。ノラウルフの通訳してたし。
「……聞こえている。おい、犬。お前の名前はなんて言うのだ?」
「私はライウルフのバースという」
二言目だからか、異種族の声を聴き取るのに慣れ、声が多少クリアに聞こえるようになった。
種族はライウルフ。ふーん。ノラウルフの亜種のようなものか。まぁ似てるしな。種族はどう見ても獣種だろう。間違いないな。
「そうか、バース。それでお前、俺に何か用か?」
「我らが領主、モスクルト伯爵より言伝があるのだ、それを伝えに来た」
「ふむ……、聞こう」
モスクルト伯爵、ね。爵位持ちの魔族ならばそれなりに上級魔族なのだろう。あまり思い出したくはないが、俺に喰われたあの魔族も、どこかの魔族の指示を受けている、とかいう話だった記憶がある。
こいつもそのクチなのだろう。
「えー。モスクルト伯爵はこう仰っている。――死ね。人間の魔王なんざ死ね。虫けらのごとく大した意味もなくあっさりとデスれ。道に落ちているキノコ食って苦しんで笑い疲れて呼吸困難で死ね。――以上だ」
威勢が良い魔族が現れたようですよ?




