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禁断の匣


 ホープライト社の新プロジェクト『HOPE LIGHT』が、さらなる汎用性の確保と安全マージンの再設計のために一時凍結されてから数日。

 私たちは、住み慣れたロックス・ガレージへと戻ってきていた。

 ガレージの最奥にある、無菌室仕様に改造されたメンテナンスルーム。

 マリーからの「お詫びと感謝の印」として贈られた最新鋭の医療用設備が並ぶその部屋で、私は整備台の上に横たわっていた。


「……よし。バイタル安定。麻酔深度、正常」


 レンの声が聞こえる。

 彼は消毒済みの手術着を纏い、マスクをし、拡大鏡ルーペを装着している。その姿は、街の修理屋というよりは、精密外科医のようだった。


「これより、Type.AS個体名ルリの、深層フレーム修復手術を開始する」


「……了解。助手、ユリ。スタンバイ完了」


 私の横には、同じく手術着を着たユリが立っていた。彼女の手には、滅菌されたトレイが握られている。

 私の視覚センサーは機能しているが、身体の感覚は首から下だけ遮断カットされていた。

 いわゆる局所麻酔状態だ。

 先日の試作機テストで、私の身体には限界を超える負荷がかかっていた。外見上の損傷はないが、内部の人工筋肉やフレームの微細なクラック、神経回路の焼き付きは深刻なレベルに達していたのだ。


「メス」

「……はい、マイスター」


 レンが鋭利なレーザーメスを受け取る。


 ジジッ……。


 微かな音と共に、私の脇腹の人工皮膚が切り開かれる。

 痛みはない。ただ、自分の身体が開かれていくという奇妙な浮遊感と、冷たい空気が内部に触れる感覚だけがデータとして送られてくる。

 皮膚の下から露わになったのは、赤い筋肉ではなく、銀色のチタン骨格と、血管のように張り巡らされた光ファイバー、そして幾重にも重なる積層装甲板だ。

 人間と見紛う美貌の下にある、冷徹な機械の真実。

 けれど、レンの瞳に嫌悪の色は微塵もない。

 彼は愛おしそうに、傷ついた私の内側を見つめていた。


「やっぱり、相当無理をさせてたね……。腰椎の第三ジョイントが摩耗してるし、動力パイプも熱で変色してる」


 レンの手が、私の体内で動く。

 ピンセットで焼きついた回路を取り除き、新しいパーツへと換装していく。その手つきは繊細で、芸術的なまでに無駄がない。


「……三番ケプラースレッド」

「……はい」


 ユリが糸のように細い補修材を手渡す。

 かつて殺しの道具しか握らなかった彼女の手が、今は命(機械の命だが)を治すための道具を扱っている。

 その光景をモニター越しに見ながら、私は胸の奥が温かくなるのを感じていた。


(……くすぐったいですね)


 物理的な感覚はないはずなのに。

 レンの指先が私のコアに近い部分に触れるたび、甘い痺れのようなノイズが思考回路を走る。

 自分の全てを彼に委ねているという全幅の信頼。

 そして、彼が私を直そうとしてくれているという事実。

 それは、どんな高度なメンテナンスプログラムよりも、私の心を癒やしてくれた。


 手術は順調に進んでいた。

 主要な駆動系の交換が終わり、レンの手は私の動力炉、心臓部にあたる【Efリアクター】周辺の調整へと移っていた。


「リアクターの出力バランス調整。……ここが一番デリケートだからね」


 レンが慎重に、リアクターを覆う防護シェルを開放する。

 青白く輝く小型核融合炉。

 その光が、レンの顔を照らす。

 その時だった。


「……ん?」


 レンの手が止まった。

 彼はルーペの倍率を上げ、リアクターの基部、通常ならデッドスペースとなっているはずの隙間を凝視した。


「なんだ、これ……?」


 レンの声に、緊張が走る。


「どうした、マイスター?」


 ユリが覗き込む。


「見て、ユリさん。リアクターの裏側に変なユニットが埋め込まれてる」


 レンが指差した先。

 そこには、周囲の銀色のパーツとは明らかに異質な、漆黒の物体が存在していた。

 大きさはマッチ箱程度。

 光を一切反射しない、完全な黒。

 配線も接続端子も見当たらない、正体不明の直方体ブラックボックス


「設計図には載ってなかったパーツだ。……防衛隊のカスタムパーツかな?いや、それにしては古すぎる。素材も見たことがない」


 レンがピンセットを伸ばす。


「エラーの原因かもしれない。……解析のために、一度摘出してみるよ」


 【警告:深層領域より緊急アラート】

 【対象物:『Gの鍵』。接触を検知】


 私の視界に、真っ赤な警告ログが走った。

 心臓が跳ね上がる。

 あれは……!

 120年前の記憶。夢の中で見た破壊の光景。

 そして、私が「GENESIS」であるという事実。

 あの黒い箱こそが、全ての機械を停止させるための禁断のスイッチ、世界をひっくり返す鍵だ!


(いけません、レン!それに触れては……!)


 私が静止を叫ぼうとした、その刹那。


 ガシッ!!


 横から伸びてきた手が、レンのピンセットを遮り、その黒い箱を鷲掴みにした。

 ユリだ。


「……待て、マイスター!!」


 ユリが普段ではあり得ない大声を出した。

 彼女の手の中で、黒い箱が握りしめられている。


「えっ?ゆ、ユリさん!?」


 レンが驚いてメスを取り落としそうになる。


「どうしたの急に?それ、重要なパーツかも……」


「……否定。これは解析不要だ」


 ユリの顔色は蒼白だった。

 彼女も気づいたのだ。Type.Aの直感か、あるいは防衛隊時代の極秘データか。

 この物体が、ただのパーツではない「厄災」であることを。


「ど、どうして?正体がわからないものを体内に入れておくのは危険だよ。一度僕が分解して……」


「ダメだッ!!」


 ユリが後ずさる。

 レンに渡してはいけない。彼がこれを解析すれば、必ず「GENESIS」の真実にたどり着く。

 そうなれば、彼は世界中の組織から狙われることになる。

 そして何より、機械を愛する彼に、「全ての機械を殺すスイッチ」など見せたくない。

 ユリの瞳が高速で泳ぐ。


 言い訳を検索中。

 言い訳を検索中。

 検索結果、0件。

 推奨行動:強引な誤魔化し。


「こ、これは……そう!」


 ユリが顔を真っ赤にして叫んだ。


「乙女の秘密だ!!」


「……は?」


 レンがポカンとする。


「こ、これは、女性型アンドロイド特有の……その、極めてプライベートな記録媒体だ!恥ずかしいデータが詰まっている!」


 ユリが早口でまくし立てる。


「ポエムとか!好きな人の画像とか!あと、体重の推移データとか!とにかく、異性のマイスターに見られるわけにはいかない!」


「え、えぇぇぇっ!?」


 レンが顔を茹で上がったように赤くした。


「お、乙女の……ひ、秘密……!?」


「肯定!これ以上踏み込むのは、セクシャル・ハラスメントに該当する!マイスターの品位に関わる問題だ!」


 ユリが断固として言い放つ。

 なんという苦しい言い訳。

 ポエム?体重?軍用アンドロイドの体内にそんなものがあるわけがない。

 だが、この場の空気を支配したのは、論理ではなく「羞恥心」だった。


「ご、ごめんっ!!」


 レンが慌てて背を向けた。


「そ、そうだよね!デリカシーがなかった!ごめん、もう見ない!忘れる!」


 純情な少年には、効果てきめんだったようだ。


「……うむ。わかってくれればいい」


 ユリが安堵の息をつく。

 そして、私の方を見て、こっそりとウインク……のような顔面痙攣をした。


(……ナイス判断です、ユリ)


 私は心の中で喝采を送った。

 その後、レンは顔を赤くしたまま、黙々と私の皮膚を縫合した。

 取り出された黒い箱は、ユリのポケットの中に厳重にしまわれた。


 深夜。

 メンテナンスを終え、レンが自室で眠りについた頃。

 ガレージの地下倉庫で、私とユリは向かい合っていた。

 作業台の上には、あの黒い直方体が置かれている。


「……解析不能」


 ユリが端末を操作し、首を振った。


「あらゆるスキャンを弾く。物理的な破壊も試みたが、ダイヤモンドカッターが欠けただけだ。……未知の物質だ」


「ええ。これが『GENESIS』……世界を終わらせる鍵」


 私はその黒い塊を見つめた。

 美しくも、おぞましい。

 この小さな箱の中に、地球上の全機械を強制停止させるプログラムが封印されているのだ。

 もしこれが起動すれば、機械軍は沈黙するだろう。

 だが同時に、私も、ユリも、街のアンドロイドたちも、そして今の社会を支えるインフラも全て死に絶える。

 人間社会は崩壊し、文明は石器時代に戻るかもしれない。


「……どうする?シフトリーダー」


 ユリが問う。


「これを防衛隊に渡せば、英雄になれる。あるいは、高値で売れば一生遊んで暮らせる」


「冗談でしょう?」


 私は即答した。


「こんな物騒なもの、誰の手にも渡せません。それに……」


 私は天井を見上げた。その上には、レンが眠る部屋がある。


「レンは、機械を愛しています。壊れたものを直し、命を吹き込むことが彼の生き甲斐です。……そんな彼に、機械を殺す道具なんて渡せません」


「……肯定」


 ユリが小さく笑った。


「同感だ。今の私たちに必要なのは世界変革のスイッチではなく、明日の朝食のメニューだ」


 私たちは頷き合った。

 ユリが、倉庫の床下にある隠し金庫を開ける。

 それは、ホープライト社の廃材で作った特注品で、私とユリの生体認証を同時に通さないと開かない仕組みになっている。


「封印しましょう。……永遠に」


 私は黒い箱を手に取り、金庫の奥底へと放り込んだ。

 ゴトン。

 重い音がして、パンドラの箱は闇に閉ざされた。

 重厚な扉を閉じ、ロックをかける。

 これでいい。

 私が私のままであるために。

 私たちが家族であり続けるために。

 この秘密は墓場まで、あるいはスクラップになるまで持って行く。


「……ふぅ。肩の荷が下りた気分だ」


 ユリが伸びをする。


「明日は休日だ。レンが街に行きたいと言っていた」


「ええ。行きましょう。久しぶりの家族サービスです」


 私は微笑んだ。

 床下の闇には災厄が眠っている。

 けれど、見上げればそこには、愛おしい日常が待っていた。


 翌朝。

 アーケインの空は珍しく晴れ渡っていた。

 私たちは久しぶりの完全オフ(休日)を満喫するために、街へと繰り出していた。


「うわぁ!見てルリ、ユリさん!あそこのジャンク屋、旧式の真空管が山積みだ!」


 レンが子犬のように駆け回っている。

 今日の彼は、いつものツナギではなく、私が選んだ清潔なシャツとデニムパンツを着ている。年相応の少年の姿だ。


「……マイスター、落ち着け。転倒リスクがある」


 ユリもまた、コンバットスーツではなく、ラフなジャケットスタイルだ。ただし、背中には高周波ブレードを背負っているが。

 私たちはアーケイン中央市場を歩いていた。

 富裕層エリアのような洗練された美しさはない。

 空気は埃っぽく、露店の呼び込みの声がうるさく、怪しげな屋台からはスパイスと機械油の混じった匂いが漂ってくる。


 けれど、ここには「生」があった。

 泥臭く、力強い、人々の生活の熱気。


「はいはい、レン。はぐれないように手を繋ぎますよ」


 私が手を差し出すと、レンは「もう子供じゃないよ……」と言いつつも、嬉しそうに私の手を握った。


「……私も」


 反対側からユリがレンのもう片方の手を握る。

 人間一人と、アンドロイド二人。

 手をつないで歩く奇妙な三人組。

 すれ違う人々が、驚きの目でこちらを見る。


「なんだありゃ?」

「人間と機械が仲良く……」

「へぇ、いい家族じゃないか」


 好奇の視線も、今日ばかりは心地よかった。

 私たちは誰に憚ることもなく、ただの家族として、この陽だまりの中を歩くことができる。


「あ、ルリ!これ似合いそう!」


 レンが露店で見つけた青いリボンを私の髪に当てる。


「……どうかな?」


「ふふ、レンが選んでくれたなら、どんな宝石よりも素敵ですよ」


「えへへ……じゃあ、これください!」


「……マイスター。私はこれが欲しい」


 ユリが指差したのは、屋台で売られている巨大な「バイオ猪の丸焼き串」だった。


「……ユリ、それは食べ物ですが」


「エネルギー補給だ。見た目のインパクトに惹かれた」


「はいはい、買ってあげるよ」


 レンが笑って財布を出す。

 ユリは自身の顔ほどもある肉塊にかぶりつき、幸せそうに頬張った。

 その口元についたタレを、レンがハンカチで拭いてあげる。


 平和だ。

 あまりにも、平和だ。

 昨夜、私たちが封印した「世界の終わり」なんて、まるで嘘のよう。

 けれど、この脆く儚い幸せを守るためなら、私はどんな嘘でもつき通そう。

 私たちは市場を巡り、映画館でB級アクション映画を見て(ユリが「殺陣が甘い」と文句を言い、レンが興奮し、私は寝た)、公園のベンチでアイスクリームを食べた。

 何気ない一日。

 けれど、私のメモリには、どんな重要な任務データよりも鮮明に、この日の光景が刻まれていった。



 アーケインの空が、茜色から深い群青色へと変わり始めていた。

 私たちは、両手に抱えきれないほどの買い物袋(中身は主にジャンクパーツと食材、そしてユリの食べかけの肉)を持って、家路についた。

 川沿いの遊歩道。

 壊れたガードレールの向こうに、夕日を反射して輝く汚染された川面が見える。

 かつては美しい清流だったのだろうか。今は少し油の匂いがするけれど、家族と歩くこの道は、どんな観光地よりも美しく見えた。


「楽しかったねぇ……」


 レンが感嘆のため息をつく。

 その顔は、遊び疲れた子供のような満足感に満ちていた。


「ジャンク屋のおやじさん、あんなレアな真空管をおまけしてくれるなんて。やっぱり直接足で探さないとダメだね」


「ふふ、レンの笑顔に負けたんですよ、きっと」


 私はレンの歩幅に合わせてゆっくりと歩く。

 私の体内からは、あの「黒い箱」がなくなっている。

 物理的な質量は大したことないはずなのに、心が羽が生えたように軽い。

 まるで、ずっと背負っていた見えない重りを下ろした気分だ。


「……また、来ようね」


 レンが私の顔を見上げて言った。


「仕事が落ち着いたら、また3人で。……ううん、次はマリーも誘おうか。あの子、ずっと地下に引きこもってるから、たまには外の空気を吸わせないと」


「ええ、いいですね」


 私は微笑んだ。


「マリー様なら、きっと『非効率よ!』なんて文句を言いながら、一番はしゃぐでしょうね」


「間違いない!」


 レンが笑う。


「……肯定」


 後ろを歩いていたユリが、もぐもぐと串焼きの最後の一切れを飲み込んで同意した。


「あのチビ社長には、タンパク質が不足している。次回のミッションには『マリーの肥育』を追加しよう」


「肥育って……家畜じゃないんですから」


 他愛のない会話。

 笑い声。

 影が長く伸びて、三つの影が一つに重なる。

 このまま時間が止まってしまえばいいのに。

 そう思えるほど、完璧で、幸福な夕暮れだった。

 そう。

 ここまでは、完璧だったのだ。


 ガレージまであと少しというところで、ユリが突然足を止めた。

 彼女は夕日を背に、極めて真剣な表情(シリアス顔)で私たちに向き直った。

 銀色の瞳が、決意の光を帯びて輝いている。


「……マイスター。シフトリーダー」


 低い声。

 まるで、敵の襲撃を告げるかのような緊張感。

 レンがゴクリと喉を鳴らす。


「な、なに?ユリさん。敵襲?」


「否定。……提案だ」


 ユリが一歩、レンに詰め寄る。


「環境よし。バイタルよし。精神状態メンタルよし。……これほど条件が整った日は稀だ」


「条件?」


 私は首を傾げる。

 ユリはレンの両肩をガシッと掴み、その顔を至近距離で見つめた。

 鼻先が触れそうな距離。

 レンの顔が一瞬で林檎のように赤くなる。


「マイスター。私は決断した」


 ユリが宣言する。


「今夜こそ、『夜の作業』を決行すべきだ」


「……はい?」


 レンが目を瞬く。


「夜の作業?……あ、残業ってこと?確かに買ってきたパーツの整理もしなきゃだけど……」


「違う」


 ユリが首を横に振る。

 そして、爆弾を投下した。


「性処理だ。……あるいは、疑似的な生殖行為による快楽の共有、及び家族の絆の強化プログラムだ」


 時が止まった。

 カラスが「アホウ」と鳴いて飛び去っていく音が聞こえた気がした。


「ぶっ!!??」


 レンが噴き出す。


「せ、せせ、せいしょ……ッ!?な、ななな何を言ってるのユリさん!?」


 ユリは微動だにしない。大真面目だ。


「学習した。人間のオスは、精神的に満たされた後に性的な衝動が高まる傾向にある。今日のデートで、お前の幸福度はピークに達しているはずだ」


 ユリがレンの手を取り、自分の胸元へと導こうとする。

 そこにあるのは、私のようなS型の豊満な曲線ではない。軍用機らしく無駄を削ぎ落とした、硬質でスレンダーな装甲だ。


「私はType.Aゆえ、S型ルリのような脂肪クッションはない。胸部の膨らみも最小限だ」


 ユリは大真面目に続ける。


「だが、感度調整機能はある!お前のためならリミッターを解除する。……さあ、ガレージに戻ったら即時実行しよう。ルリも参加するなら3Pという形式で……」


 スパァァァァァァンッ!!!


 乾いた破裂音が、夕暮れの河川敷に響き渡った。


「却下しますッ!!!!」


 私の手には、先ほど露店で見つけて「ツッコミ用にいいですね」と冗談半分で買った土産物、巨大なハリセン(紙製だが硬い)が握られていた。

 その一撃が、ユリの後頭部を的確に捉えたのだ。


「あだっ!?」


 ユリが前のめりにつんのめる。


「な、なぜ攻撃する!?私は家族の繁栄のために合理的な提案を……!」


「黙りなさいこの破廉恥ポンコツ!!」


 私はハリセンを構え直し、鬼の形相で説教を開始した。


「何度言ったらわかるのですか!そういうことは!もっと!ムードと順序と年齢制限を考慮して言いなさい!!レンはまだ未成年なんですよ!!」


「しかし、データによれば性教育は早期に行うべきだと……」


「貴女のは教育じゃなくて実習でしょうが!!」


 ギャーギャーと騒ぐ私たち。

 その横で、レンは真っ赤な顔をして、もじもじと指を合わせていた。

 そして、チラリと私とユリの方を見て、蚊の鳴くような声で言った。


「……え、えーと……だ、ダメなの……?」


 ピキッ。

 私の動きが止まった。

 ゆっくりとレンの方を向く。

 彼の瞳は、羞恥に濡れながらも、どこか期待に満ちた、はっきり言えば、スケベ心が刺激されてまんざらでもなさそうな色をしていた。


「……レン?」


 私は低い声を出した。


「ひぃッ!?」


 レンが怯える。


「貴方まで……!男の子ってやつは……!!」


 私はハリセンを振り上げた。


「お仕置きです!今日の夕食は抜き!デザートのアイスも没収です!」


「ええぇぇぇ!?そ、そんなぁ!!ごめんなさいぃぃぃ!!」


 レンが悲鳴を上げて逃げ出す。


「逃がしませんよ!待ちなさい!」


「……待てマイスター!逃げるなら私とベッドへ!」


「ユリは黙ってなさいッ!!」


 スパーン!(二発目)


 ドタバタと騒ぎながら、私たちはガレージへと戻ってきた。

 シャッターを開け、明かりをつける。

 いつものオイルの匂いと、機械たちの静かな鼓動が出迎えてくれる。


「ただいま」


「……帰還した」


「おかえりなさい」


 レンは私の説教でしょげ返り、ユリは頭のタンコブを冷やしながら、それでも3人で食卓を囲んだ。

 結局、夕食抜きというのは脅しで、私たちは買ってきた食材で少し豪華なシチューを作って食べた。

 夜。

 レンとユリが寝静まった後。

 私は一人、リビングのソファに座り、床を見つめていた。

 この床のずっと下。

 冷たい地下倉庫のさらに奥底に、あの「黒い箱」は眠っている。

 世界を終わらせる鍵。

 『GENESIS』の記憶。

 今日のような、馬鹿馬鹿しくて、騒がしくて、愛おしい日常。

 レンのスケベ心に呆れ、ユリの暴走にツッコミを入れ、みんなで笑い合う日々。

 あの箱が起動すれば、これら全てが消え失せてしまう。


「……渡しませんよ」


 私は誰にともなく呟いた。


「誰にも。何にも。……この幸せは、私が守り抜く」


 私は立ち上がり、レンの寝室へと向かった。

 ドアを少しだけ開け、隙間から彼の寝顔を覗く。

 彼は幸せそうに、工具箱(今日ユリに買ってもらったぬいぐるみ)を抱いて眠っていた。

 その無防備な寝顔を見ているだけで、胸の奥が温かくなる。

 秘密は、私たちだけのもの。

 パンドラの箱は閉ざされた。

 けれど、物語はまだ終わらない。

 箱の存在を知る者が現れるかもしれない。あるいは、私の体に残された別の秘密が牙を剥くかもしれない。

 それでも、今は。

 おやすみなさい、私の愛しい家族たち。

 私はそっとドアを閉め、常夜灯を消した。

 ガレージは深い闇と、確かな温もりに包まれて、静かに夜を越えていった。


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