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鉄の福音、価値なき者の証明


 空は鉛色に塗り潰されていた。

 分厚い雲の切れ間から差し込む光は、地上を照らす希望ではなく、ただこの星がまだ死に絶えていないことを告げるだけの冷たい監視者の眼差しのようだった。

 中規模都市アーケイン。

 かつて文明の象徴だった高層ビル群の残骸に寄生するように、無数のパイプとケーブルが張り巡らされたこの街は、巨大な心臓の鼓動に支配されている。

 都市の中央に鎮座する「エネルギー反応炉」。

 ブゥン、ブゥン、ブゥン……と、地殻そのものを揺らすような重低音が、住人たちの骨の髄まで響き渡る。それは都市を動かす動力源であり、同時に、いつ暴走して全てを焼き尽くすかわからない恐怖のカウントダウンでもあった。

 都市の第4階層、スラム街の一角に、その店はあった。

 酒場兼斡旋所【アイアンラスティ】。

 ネオン管がチカチカと痙攣し、看板の「R」の文字が消えかかっている。重い鉄扉を押し開けると、鼻を突くのは強烈な廃油の臭いと安酒のアルコール臭、そしてタバコの煙だ。もっとも、ここで紫煙をくゆらせている客の八割は、肺など持ち合わせていないのだが。


「だから、その額じゃ割に合わないって言ってるんだ!」


 喧騒渦巻く店内で、少年の悲痛な叫びが響いた。

 カウンターに身を乗り出しているのはレンだ。

 オレンジ色のつなぎは機械油と煤で黒ずみ、被り直した古い野球帽のツバからは、不安げに揺れる黒い瞳が覗いている。身長一六〇センチの痩せっぽちな体躯は、周囲を埋め尽くす巨漢のアンドロイドたちに比べればあまりにも頼りない。

 カウンターの奥、バーテンダーを務める旧式の汎用作業型アンドロイドが、カメラアイを赤く明滅させて嘲笑的な電子音を漏らした。


『否定(NEGATIVE)。提示額は適正である。依頼内容はセクター9における資材回収。危険度ランクD。人間オーガニックの子供の小遣い稼ぎには十分な額だ』


「ランクDだって!?あそこは先週野盗の目撃情報があったばかりじゃないか!それに回収するのは戦前製の高純度コンデンサだぞ?市場価値なら今の十倍は……!」


『黙れ、有機生命体』


 バーテンダーの腕が伸び、レンの胸倉を掴み上げた。油圧シリンダーが軋む音と共に、レンの体が軽々と宙に浮く。


「う、ぐっ……!」


『価値のない者が口を利くな。酸素を消費するだけの旧世代の遺物が。お前のような脆弱な生物が、我々と同じ空気を吸っていること自体が資源の無駄遣いなのだ』


 店内の空気が凍りついたわけではない。むしろ、ドッと沸いた。

 テーブル席で酒(あるいは冷却液)を煽っていた傭兵や荒くれ者たちが、一斉にレンをあざ笑う。


「おいおい、見ろよあのザマを!ママのおっぱいでも吸ってな、人間!」


「潰しちまえよマスター!そいつの血液でカクテルを作ろうぜ!」


 罵声。嘲笑。侮蔑。

 これが、この世界の日常だ。

 かつて万物の霊長を自称した人類は、いまや食物連鎖の最底辺。鉄と回路を持つ者が強者であり、肉と血を持つ者は搾取されるだけの弱者。

 レンは足をバタつかせ苦悶に顔を歪める。首を締め上げる鋼鉄の指は、あと数ニュートン力を込めれば容易く彼の頸椎をへし折るだろう。


(くそっ……離せ……!)


 酸素が欠乏し、視界が白んでいく。

 誰も助けてくれない。ここでは人間の命などボルト一本よりも軽い。

 薄れゆく意識の中で、レンは自分の無力を呪った。僕はただ生きたいだけなのに。ルリを直して、一緒に生きていきたいだけなのに。

 その時だった。

 ガァンッ!!

 轟音と共に、厚さ五センチはある鉄製の扉が内側へ向かって弾け飛んだ。

 蝶番が千切れ飛び、ひしゃげた鉄板が床を滑ってバーテンダーの足元で止まる。

 一瞬にして、店内の喧騒が消滅した。

 全員の視線が、入り口に釘付けになる。

 土煙が晴れる中、一人の「女性」が立っていた。

 身長一六五センチ。黄金比で設計されたしなやかな肢体。腰まで届くプラチナブロンドの髪をポニーテールに束ね、その先端が静電気を帯びて微かに揺らめいている。

 カーキ色のモッズコートを羽織っているが、その下から覗くボディライン、豊満な胸部と引き締まった腰つきは明らかに戦闘用ではない。見る者の劣情を、あるいは所有欲を掻き立てるよう計算され尽くした至高の造形美。

 だが、その青い瞳だけが絶対零度の冷たさを湛えていた。


「……遅い」


 鈴を転がすような、しかし聞く者の背筋を凍らせる声。


「交渉に五分以上かけるなど、非効率的にも程がありますよ。マスター・レン」


 タイプAS、個体名称ルリ。

 彼女はカツ、カツ、と軍用ブーツの音を高く響かせながら、店内を一直線に進む。

 その美貌に見惚れた一人のチンピラ、改造された右腕を持つアンドロイドが下卑た笑みを浮かべて手を伸ばした。


「ヒューッ!極上のS型サービス・タイプじゃねえか。おいネエちゃん、そんな人間のガキより俺の相手を……」


 男の手が、ルリの肩に触れようとした瞬間。

 バキィッ。

 視認不可能な速度だった。

 次の瞬間には、男は手首から先をあらぬ方向にねじ曲げられ、床に顔面を叩きつけられていた。


「ア、ガ……ッ!?エ、エラー……駆動系、損傷……!」


 ルリは男を見下ろすことすらしなかった。ただ邪魔な小石を避けただけというようにそのままカウンターへと歩み寄る。


「マスター・レンを放しなさい。その汚いオイルまみれの手で触れていい方ではありません」


『な、なんだ貴様は……TYPE.Sか?いや、その出力係数は……』


 バーテンダーが狼狽する。

 ルリの瞳の奥で、幾何学模様の光が高速で回転していた。

 彼女は腰のホルスターから大型のハンドガンを抜き放つと、迷いなくバーテンダーの眉間に突きつけた。


「三秒。それ以上は私の演算リソースの無駄です」


「い、一!」


 レンが叫ぶよりも早く、バーテンダーは手を離した。

 床に落ちたレンは激しく咳き込む。


「げほっ、ごほっ……!る、ルリ……」


「無様ですね。バイタルサイン低下、心拍数上昇。酸素供給効率が悪すぎます」


 ルリは呆れたように吐息を漏らし、レンの背中を優しく、しかし有無を言わせぬ強さで叩いた。そして、凍りついたままのバーテンダーへ冷徹な視線を戻す。


「で?依頼の話でしたね。セクター9のコンデンサ回収。報酬は先ほどの提示額の三倍、前金で五割。そして今夜の酒代は貴方の奢り。……異論は?」


 銃口をぐい、と押し込む。


『承知……した。契約、成立だ……』


 店を出て行く二人を、誰も止めようとはしなかった。

 美しいS型の外見に、悪魔的なA型の戦闘能力。そのあまりにアンバランスなキメラの存在感に、荒くれ者たちはただ震えるしかなかったのだ。


 都市の外縁部、セクター9。

 かつて旧市街と呼ばれていたこの場所は、今や鉄とコンクリートの墓標が並ぶ迷宮と化している。

 崩れ落ちたビルの隙間を、乾いた風が吹き抜ける。風に乗って運ばれてくるのは、酸化した鉄の匂いと、微量な放射性物質を含んだ砂埃だ。


「……怖かった」


 瓦礫の山を乗り越えながら、レンがぽつりと呟いた。

 手にはガイガーカウンターと大きな工具箱。足取りは重い。


「あのまま殺されるかと思ったよ。ありがとう、ルリ」


「感謝には及びません」


 レンの数歩先を歩くルリは、振り返りもせずに答える。

 彼女の歩き方は洗練されていた。不安定な足場をものともせず、重心を常に一定に保ち、周囲三六〇度を警戒しながら進んでいる。迷彩柄の軍服の上から羽織ったモッズコートが、風に煽られてバタバタと音を立てる。


「『原初命令(MASTER BOOT RECORD)』項2。アンドロイドは人間を守らなければならない。私はシステムに従ったまでです」


「またそれかぁ……。たまには『レンが大事だから助けた』とか言ってくれてもいいのに」


「非論理的です。感情値による判断はエラーの元凶。私は常に最適解を選択します」


 ルリの声は素っ気ないが、その歩速は明らかにレンの歩幅に合わせて調整されていた。

 レンは苦笑いを浮かべ、彼女の背中を見つめる。

 整ったプロポーション。歩くたびに揺れるプラチナブロンド。彼女は美しい。それは単なる工業製品としての完成度を超えた、何か魂のようなものを感じさせる美しさだ。

 けれど、彼女は自分を「機械」だと定義し僕は「人間」だと線を引く。

 この世界で最も人間らしい心を持っているのは、皮肉にも彼女の方かもしれないのに。


「目標地点に到達。スキャン開始」


 ルリが立ち止まった。

 そこは半壊した工場の跡地だった。天井が抜け落ち空が見えている。床には錆びついた生産ラインが、巨大な蛇の死骸のように横たわっていた。

 レンは工具箱を下ろし、携帯端末を取り出す。


「ここの地下倉庫に、戦前の備蓄が残ってるはずだ。……よし、反応あり。ルリ、そっちの瓦礫をどかしてくれる?」


了解ラジャー


 ルリは数百キロはあるであろう鉄骨の塊に手をかけると、全身の駆動系を唸らせ、軽々と持ち上げた。

 その下から、地下へと続くハッチが現れる。

 地下空間は、死のような静寂に包まれていた。

 レンの持つライトの光だけが、暗闇を切り裂く。棚に並んでいたのは、埃を被った木箱の山。レンがその一つをバールでこじ開けると、中には油紙に包まれた円筒形の部品がぎっしりと詰まっていた。


「あった……!高純度コンデンサだ!これなら高く売れるぞ!」


 レンが歓声を上げ、コンデンサをバックパックに詰め込み始めたその時。

 ズズズゥ……ン。

 微かな振動が、足裏を伝った。

 レンの手が止まる。


「……地震?」


「いいえ」


 ルリの声色が、瞬時に切り替わった。それは日常会話のトーンではなく、戦場の指揮官のそれだ。

 彼女は瞬時にレンの前へと移動し、彼を背中に隠すように立つ。

 青い瞳が激しく明滅し、索敵モードが起動する。


「熱源反応多数。上方より接近中。……囲まれましたね、マスター・レン」


 工場の天井、吹き抜けになった頭上から複数の影が降り注いだ。

 ドスン、ドスン、と重量感のある着地音が響く。

 土煙の中から姿を現したのは、異形の怪物たちだった。

 全高約八メートル。人型ではあるが、その装甲はつぎはぎだらけで、赤錆に覆われている。右腕には建設用の巨大なドリル、左腕には対人用のガトリングガン。

 旧大戦期の傑作パワードスーツ『SAA-1873 ピースウォーカー』。

 だが、正規の機体ではない。野盗たちがジャンクパーツで無理やり補修し、狂暴化させたカスタム機だ。その数は三機。


『ギャハハハハハ!当たりだ、当たり!』


 先頭の機体の外部スピーカーから、割れたノイズ混じりの笑い声が響く。


『コンデンサなんかどうでもいいぜ!見ろよあの姉ちゃん、極上のType.Sだ!顔も体もピカピカじゃねえか!』


『おいおい、抵抗すんじゃねえぞ?その綺麗なスキンに傷がついたら、売り値が下がるからなぁ!』


 三機のピースウォーカーが、包囲網を縮める。

 圧倒的な質量差。八メートルの巨体に見下ろされる恐怖に、レンの膝が震える。


「う、嘘だろ……こんな旧式が三機も……」


 通常の人間なら、恐怖で失禁していてもおかしくない状況だ。パワードスーツの出力は、生身の人間や等身大のアンドロイドとは桁が違う。一撃でも受ければ、ミンチになる。

 だが、ルリは一歩も引かなかった。

 彼女はゆっくりとモッズコートを脱ぎ捨てた。

 露わになったのは、迷彩色の軍服に包まれた肢体。そして、両腿のホルスター、腰のナイフ、背中に背負った折りたたみ式の高周波ブレード。

 その姿は、娼婦のように艶かしく、死神のように禍々しい。


「マスター・レン」


 ルリは静かに呼びかけた。視線は敵機を捉えたまま微動だにしない。


「物陰に隠れていてください。飛び散ったオイルで服が汚れると、洗濯が面倒です」


「ル、ルリ!無茶だ!相手はパワードスーツだぞ!? 逃げよう、隙を見て……」


「逃走?却下します」


 カシャリ、とルリが両手のハンドガンのスライドを引く音が、静寂な地下空間に響き渡る。

 彼女の唇が、微かに弧を描いた。それは侮蔑か、あるいは戦闘への渇望か。


「あの程度の鉄屑、私の演算処理においては『障害物』にすら分類されません。……それに」


 ルリの声が、一段と低くなる。


「私を『売り物』扱いした罪。その機体の全パーツ、ネジ一本に至るまで分解して償わせます」


 【戦闘モード、起動イグニッション


 刹那。

 ルリの姿が消えた。

 いや、レンの動体視力が追いつかないほどの初速で、彼女は地面を蹴ったのだ。

 コンクリートの床が爆ぜる。

 八メートルの巨人と、一六五センチの美女。

 無謀とも言える死の舞踏が幕を開ける。


 空気の裂ける音が、地下空間を支配した。


「ギャッ……!?」


 先頭にいたピースウォーカーのパイロットが、悲鳴を上げる暇もなく絶句した。

 モニターから、ターゲットの姿が消失したからだ。

 センサーが捉えたのは、残像のような青い光の軌跡のみ。


「どこだ!?どこへ消えやがった!」


 パイロットがコクピット内で視線を走らせた瞬間、頭上のハッチに重い衝撃が走った。

 ダンッ!

 何かが、機体の上に乗った。


「上方、死角ゼロ距離。反応速度、遅すぎます」


 冷徹な声は、外部スピーカー越しではなく、機体の装甲を伝って直接響いてくるようだった。

 ルリは八メートルの巨人の肩に立っていた。

 重力制御が狂ったかのように軽やかな立ち姿。彼女は右手のハンドガンを、ピースウォーカーのメインカメラユニット(頭部)に密着させる。


視界センサーを奪います」


 ドォン!

 大口径の一撃がカメラを粉砕する。


「あ、あああ!目が、目がああ!」


 視界を失い、パニックに陥った機体が腕を振り回す。その巨大なドリルが、味方の機体を巻き込もうとする。


「おい馬鹿!こっちに振るな!」


 僚機が慌てて回避しようとするが、ルリはその混乱を見逃さない。

 彼女は既に跳躍していた。

 空中で体をひねり、遠心力を利用して背中の高周波ブレードを抜刀する。刀身が超振動し、オレンジ色の燐光を放つ。


「一機目」


 着地と同時、すれ違いざまの一閃。

 視界を失って暴れるピースウォーカーの右膝関節が、まるで熱したナイフでバターを切るように両断された。

 ズズ……ンッ!

 巨体がバランスを崩し、轟音と共に倒れ伏す。


「こ、この野郎!チョコマカと!」


 残る二機が、怒りに任せてガトリングガンを斉射した。

 ババババババババッ!

 一分間に三千発の鉛の嵐が、工場の壁や床を蜂の巣にしていく。跳弾が火花を散らし、コンクリート片が飛び散る。

 だが、ルリには当たらない。

 彼女は弾道を予測しているかのように、最小限の動きで銃弾の雨をすり抜けていく。あるいは、倒れたピースウォーカーの残骸を盾にし、あるいは壁を蹴って三次元的な機動を行う。

 その動きは、Type.A(軍用)のスペックを極限まで引き出した戦闘舞踊。

 しかし、同時にそのしなやかな身のこなしは、Type.S(愛玩用)特有の柔らかさ、人間を魅了するための優美さを孕んでいた。

 死を振り撒く姿さえ美しい。戦場の女神がそこにいた。


「くそっ、速すぎる!ロックオンできねえ!」

「弾幕を張れ!面で制圧するんだ!」


 野盗たちが焦りを募らせる。

 その時、一発の流れ弾が、レンの隠れている物陰の近くに着弾した。


「うわっ!」


 レンが悲鳴を上げて身を縮める。

 その声に、ルリの動きが一瞬だけ止まった。


(マスター・レンに危険性あり。殲滅速度を上昇させます)


 彼女の思考回路プロセッサが、防御セーフティを解除し、強襲アサルトモードへのリミッターを外す。

 ルリは真正面から突っ込んだ。


「なっ、自暴自棄か!?」


 敵機がドリルを突き出す。

 ルリはそれを避けなかった。ドリルの回転が頬を掠めるほどのギリギリで見切り、その巨大な腕を駆け上がる。

 腕を滑走路にして、敵のコクピット前へ。


「チェックメイト」


 ブレードがコクピットハッチの隙間を貫いた。

 中のパイロットごと、制御系を破壊する。

 二機目が沈黙。

 残るは最後の一機、リーダー格の機体だ。


「ひ、ひぃぃっ!バケモノかテメェは!」


 リーダーは戦意を喪失し、後退する。だがその背中は壁に阻まれた。

 ルリは血を振るいブレードを一閃させ、ゆっくりと歩み寄る。

 その青い瞳は、無機質な殺意のみを映していた。


「バケモノ、ですか。……いいえ、私はアンドロイド。貴方たちが生み出し、捨て、そして今、狩られる対象です」


「ま、待て!金ならある!見逃してくれ!」


「交渉決裂。貴方の存在価値は、ジャンクパーツ以下です」


 ザンッ。

 慈悲のない一撃が、最後の機体の動力を断ち切った。

 静寂が戻る。

 舞い上がった土煙が晴れていく中、ルリは乱れた前髪を指先で直す。


「戦闘終了。……マスター・レン、お怪我はありませんか?」


 レンはおそるおそる物陰から顔を出した。

 目の前には、スクラップと化した三機のパワードスーツ。そして、その中央に佇むルリ。


「す、すごい……」


 言葉にならなかった。彼女の強さは知っていたつもりだったが、これは次元が違う。

 けれど。


「ルリ!脇腹!」


 レンが駆け寄る。

 ルリの左脇腹、軍服とコートが裂け、白い肌から青白い液体(冷却液)と赤い液体(擬似血液)が混ざったものが滲んでいた。

 先程、レンを守るために強引な手段を取った際の代償だ。


「軽微な損傷です。戦闘行動に支障はありません」


「馬鹿言うなよ!中までイッてたらどうするんだ!……帰ろう、すぐに修理だ」



 アーケインへの帰路は順調だった。ルリに破壊されたピースウォーカーから使えそうなパーツとコンデンサを回収し、二人は夕闇の迫る都市へと戻った。

 レンの隠れ家兼整備ガレージ。

 シャッターを下ろし、外界の喧騒を遮断すると、そこには静謐な時間が流れる。

 作業灯の暖色の光が、散乱した工具や図面を照らし出している。

 部屋の中央、整備用のベッドにルリが腰掛けている。

 彼女はレンの指示に従い、モッズコートと上着を脱いでいた。

 上半身は黒いインナーウェア一枚。その隙間から、損傷箇所が見えている。


「……傷、深くないといいけど」


 レンは洗浄スプレーと特殊な接合剤を手に、ルリの隣に座った。

 機械油の匂いの中にルリから漂う甘い香り、香料を含んだ排気臭が混ざる。

「失礼します、マスター・レン。衣服が邪魔ですね」

 ルリは表情一つ変えず、インナーの裾を捲り上げた。

 露わになる、白くなめらかな腹部。

 そして、肋骨の下あたりに走る、火傷のような裂傷。

 レンの喉がごくりと鳴った。


(落ち着け、落ち着け僕……相手は機械アンドロイドだぞ……)


 自分に言い聞かせるが、視覚情報はそれを否定しようとする。

 Type.Sのボディは、あまりにも精巧すぎた。

 人工皮膚スキンの質感は、人間の女性そのものだ。いや、シミ一つないその肌は、人間以上の理想的な美しさを具現化している。

 へその窪み、腹筋の緩やかなライン、そして豊かな胸の膨らみが作る影。

 一六歳の少年にとって、それはあまりに刺激が強すぎる光景だった。


「……マスター?手が止まっています」


「あ、ああ、ごめん!すぐやるよ」


 レンは慌てて視線を傷口に固定し、震える指先を伸ばした。

 指が、ルリの肌に触れる。

 温かい。

 熱暴走を防ぐための排熱機構が、人肌と同じ体温を再現しているのだ。

 さらに、その弾力。

 指先が沈み込むような柔らかさは、その下に鋼鉄のフレームがあることなど忘れさせる。


「ん……」


 消毒液が沁みたのか、ルリがわずかに声を漏らした。

 その吐息のような音に、レンの心臓が早鐘を打つ。


(駄目だ、意識するな。これは整備だ、メンテナンスなんだ……!)


 必死に邪念を振り払い、レンは傷口周辺の人工皮膚を切開した。


「開くよ」

「了解。痛覚センサー、オフ」


 皮膚の下、装甲板を取り外すと、ようやく「機械」としてのルリが顔を出した。

 複雑に絡み合うケーブル、銀色のシリンダー、明滅する電子回路。

 そして、その奥でトクトクと脈動する、拳大の光の塊。

 『Efリアクター』。

 様々な原子を融合させ、無限に近いエネルギーを生み出す心臓。

 淡い青色の光が、レンの顔を照らす。


「……綺麗だ」


 思わず呟いていた。

 それはエロティックな意味ではなく、純粋な技術者としての畏敬の念だった。

 この小さな炉心が、彼女を動かし、思考させ、戦わせている。

 エミリア博士が遺した奇跡の技術。


「綺麗?この駆動音がですか?」


 ルリが小首を傾げる。


「ううん、君の命そのものがだよ」


 レンは慎重にピンセットを使い、装甲の歪みを直し、断線しかけた神経ケーブルを繋ぎ直していく。

 その作業の間、レンの手はどうしても彼女の柔らかい腹部や、胸の下の膨らみに触れてしまう。

 その度に、指先から伝わる感触が脳髄を痺れさせる。

 金属の硬さと、皮膚の柔らかさ。

 オイルの匂いと、甘い香り。

 母性と、異性としての魅力。

 相反する要素が混ざり合い、レンの中の「何か」をかき乱す。


「……マスター・レン」


 不意に、ルリが口を開いた。


「はい」


「心拍数一二〇、体温三七・五度、発汗量増大。……バイタルに異常が見られます。どこか具合が悪いのですか?」


 ルリの青い瞳が、至近距離からレンを覗き込む。

 心配そうに眉を寄せるその表情は、あまりに人間臭く、そして無防備だった。

 レンは顔を真っ赤にして、視線を泳がせる。


「ち、違う!これは……その、ガレージが暑いからだ!そう、暑いんだよ!」


「……外気温は一五度ですが」


「僕にとっては暑いの!あー、もう、動かないで!」


 レンは誤魔化すように作業を急いだ。

 これ以上、彼女に触れていたら、自分がどうにかなってしまいそうだった。

 彼女は機械だ。原初命令に縛られた作られた命だ。

 それでも、僕を守ってくれる。

 その事実に甘え、その美しさに惹かれている自分をレンは否定できなかった。

 数十分後。

 傷口の縫合と皮膚の修復が完了した。

 特殊な樹脂でコーティングされた傷跡は、数日もすれば完全に消えるだろう。


「完了。……お疲れ様、ルリ」


 レンが大きく息を吐き、額の汗を拭う。


「感謝します、マスター。完璧な処置オペレーションです」


 ルリはインナーを下ろし、元の姿に戻る。

 そして、いつもの冷静な表情で、しかしどこか柔らかな声色で言った。


「貴方は腕のいい整備士です。……私の、唯一の」


 その言葉に、レンの胸のざわめきが静まっていく。

 性的な衝動は消え、代わりに温かい充足感が満ちる。

 これでいい。

 この距離感が、僕たちの最適解なんだ。

 ガレージの隅、古ぼけたラジオからノイズ交じりのニュースが流れる。

『機械軍の西部方面隊が、移動を開始した模様です。人類居住区への影響が懸念され……』

 世界は依然として、価値のない者たちを殺そうとしている。

 だが、今はまだ。

 この小さなガレージの中で、二つの鼓動、肉の心臓と核融合の心臓が、確かに時を刻んでいた。


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