碧のこと その3
「雪見んと
思いし窓の
ガラス張り
ガラス曇りて
雪見えずけり」
正岡子規の短歌だ。
窓の外の雪が見たいけれど
見えない…
もどかしい思いが伝わる。
自分で歩いて、窓を開ければ
雪は見えるのに…
その手段を奪われた人の
悲しみの深さまでを
私たちは思い描けるのだろうか。
樹季は、短歌の鑑賞文を
生徒に書かせながら、そんなことを思った。
授業を終えて職員室に戻ると、
佐古が近寄って来た。
「麻田先生、ちょっといいですか?」
「ええ、何か?」
樹季は周囲に目を向けた。
10分休みの職員室はざわついている。
次の授業の準備を急ぐ者、
生徒の対応に追われる者が
あわただしく動き回っている。
いつもと変わらない光景だ。
そんな中で、佐古の真剣な眼が
非日常な何かを
樹季に伝えたがっている気がする。
「相談室で話しますか?」
「いや、第2理科室にしましょう。」
「わかりました。行きます。」
佐古が先に立って、廊下を歩いて行く。
理科室は1階の突き当たりだ。
佐古がドアを開けた。
足を踏み入れると、すぐに
理科室だとわかる匂いがする。
水あかや薬品で
うっすらと曇った試験管やビーカーが
卓の上にいくつも並んでいる。
アルコールランプの芯の焦げた匂いや
実験台の排水口からの臭気が
無人の教室の底冷えの中にこもっていた。
グラウンド側の窓辺の棚には
ガラスの大きな水槽が置いてある。
濃い緑色の藻がカーテンのように
水槽を内側から覆っている。
かすかなモーター音がしている。
小さな気泡が藻のカーテンを
規則的に揺らしていた。
生き物の気配があるのだ。
「何かいるのですか?」
樹季は佐古に声をかけた。
彼は準備室から持ち出したストーブを
床に置きながら笑顔で答える。
「麻田先生にも、懐かしいものですよ。」
「えっ、私が知っているもの?」
「ほら、中をのぞいて見て。」
佐古に促されて、樹季は
緑色の藻の隙間をさがしてみた。
「金魚ですね。」
あざやかなオレンジ色のしなやかな体が
悠々と藻の間を漂っている。
「そう、1年4組の、あの金魚ですよ。」
佐古は、また笑顔で言った。
彼は笑うときに、わずかに口角を上げるが
歯を見せることがない。
その表情は微笑んでいるようで優しげだが
どこか寂しげにも樹季には思えてくるのだ。
佐古は2年前、1年生を担任していた。
佐古のクラス、1年4組に
津島碧はいたのだ。
彼女は入学式に遅れて登校して来る。
樹季はその日、受付をしていた。
次々に訪れる入学生と保護者たちは
受付の名簿の中から
子どもの名前をさがし出す。
受付を終えると、真新しい制服の胸に
ピンクの紙花をつけた新入生は
それぞれの教室に案内される。
ここで彼等は式場に入るまでの
長いときを過ごすのだ。
「津島碧さんは来ていますか?」
樹季は何度も4組の教室に行っては
担任に尋ねた。
「いえ、まだです。」
そのたびに、佐古は同じ答えを繰り返す。
教室をのぞくと、窓際に一つだけ
空席があった。
結局、彼女は受付には現れなかったのだ。
しかし、入学生の呼名のときは
微かだが返事があった。
式には間に合ったらしい。
どんな子だろう…
樹季は気にかかっていた。
式が終わった後、新入生は
それぞれの教室に入り
担任の話を聞く。
樹季は碧の姿を探していた。
教室をのぞくと、
あの時は空いていた窓際の席に
今は制服の少女が座っている。
わずかに肩先にかかるくらいの長さの髪は
濃紺の制服には不似合いな
淡い栗色をしていた。
頰から首筋にかけての肌が白い。
瞳の色は肌の白さに響き合うように
褐色を帯びていた。
その眼が今は担任の佐古の顔に
しっかりと向けられている。
少女と呼ぶことが
ためらわれるような何かが
津島碧にはあった。