碧のこと その2
碧の家の観葉植物は
今日も窓辺の陽射しを
一身に受けて
まどろんでいた。
彼女の父は不在だった。
樹季にとっては彼のいないことは
好都合だ。
碧と二人で話がしたかった。
樹季が通されたのは奥の間だ。
和室にソファが置いてある。
部屋の隅にキャンバスが立てかけてあった。
絵が2枚ある。
1枚には覆いがしてあり
何の絵かはわからない。
もう1枚は肖像画らしい。
碧の父の作品だろう。
「これは、誰を描いた絵なの?」
「それは、姉です。」
碧はためらいなく答える。
「エッ、あなたにはお姉さんもいたの?」
「だって、母には見えないでしょう。」
碧は樹季の驚く顔を平然と眺めて
そう言った。
絵の中の女性は濃紺の服を着ている。
肖像画の古典と言えばモナリザが思い浮かぶ。
この絵はそれを意識して模倣しているようだ。
服の色や手の表情、体の向きまでもが。
絵を見つめている樹季を見ながら
碧が話しかけてくる。
「先生、私に話があるの?」
樹季は碧の方に視線を移す。
「ええ、そうよ。しばらく来ないから
どうしているのかなと思って。」
「この間は、心配をかけてごめんなさい。」
「いいえ、気にしないで。それより怪我は
大丈夫なの?」
「もうすっかり治りました。」
彼女は自分の髪を上げて傷口を見せた。
「でも、私が学校に行くと、面倒を起こして
先生に迷惑をかけるみたいね。」
「そんなことはないわよ。」
樹季はあわてて否定しながら
どうして自分はいつも
後手に回るのだろうと思う。
(自分は碧を説得に来たのではなかったのか)
それなのに、いつの間にか
碧に機先を制されている。
話題を変えよう。
そう思った。
「この絵は、お父さんがいつ頃描いたものなの?」
「きっと、母が生きていた頃でしょう。」
「そんな言い方だと、お母さんが
亡くなったように聞こえるわ。」
「だって、もういないでしょう。」
碧は同意を求めるように樹季を見る。
樹季はそんな碧の目線を避けるように言った。
「お父さんは、お母さんを
理想の女性の姿に描かれたのね。」
「そう、父にとって母は
永遠のモナリザなのでしょうね。」
碧はそう言った後に、急に勢い込んで尋ねた。
「先生、ドリアングレイの肖像って知ってる?」
「ええ、知ってるわ。
オスカーワイルドの小説ね。」
「先生、自分の代わりに
自分の肖像画が
醜く変貌していくとしたら、
それを見ている自分は
どんな気持ちになるのでしょうね。」
「そうね… その画の醜さはきっと
自分の罪の深さそのものだから
正視できないくらい
怖いのではないかしら。」
樹季は話を切り上げることに決めた。
「今日はもう帰るわ。
あなたと話ができてよかった。」
樹季は立ち上がって、もう一度
キャンバスの肖像画に眼を遣る。
そして、危うく手にしていたファイルを
取り落としそうになった。
絵の中には、樹季がいるように見えたからだ。
もし、ドリアンの肖像画のように
自分の過去を投影して
封じ込めるものがあるならば…
自分の拭い去れない記憶も
そこに埋めて祈ることができるのだろうか…
樹季は帰り道で繰り返しそう思っていた。