樹季のこと その2
「麻田先生、津島のことで話したいのですが。」
学年主任の秋庭から呼び止められた。
「有村との事件以来、津島は登校していますか?」
「いいえ、一度も来ていません。」
秋庭は苦い表情を見せながら言う。
「また、家庭訪問をお願いできますか。」
「わかりました。」
樹季の承諾を確かめた後に、
彼は急に声を低めて続けた。
「これは、スクールカウンセラーからの
情報なのですが…津島は、母親の交際相手と
つき合っているようだというのですが…
先生は知っていますか?」
秋庭の声が一瞬で遠ざかっていく。
樹季の胸の裡に蘇ってきたのは
樹季が中学生だったときの記憶だ。
ある夜、樹季が目を覚ますと
母の姿がない。
(母が家を出て行ったのだ)
なぜかそう思えた。
気付いたときには樹季は外に出ていた。
夜の道をしばらく行くと、街灯の下に
ぼんやりと人影が見える。
樹季が走り寄ると
母は彼女を驚いたように見てつぶやいた。
「あなたのリボンを買いたかったのよ。」
その言葉を聞きながら樹季は
母の指先にある物をそっと見た。
それは、白い小さなバラの花だ。
近くの公園に咲いている蔓バラの花…
母は長い間その公園にいたのかもしれない…
母の冷たい手に触れたときに
樹季はそう感じたのだった。
樹季が学校から帰って来ると、
玄関に男の靴があった。
父の物ではない。
父は小柄のせいで、靴も小さい。
服装などに構わない性質で
安価な靴はいつも傷んで汚れている。
今、そこにある靴は大きく
革には光沢があり、美しかった。
靴の持ち主は
「鳴海洋」
と、自らを名乗っていた。
その人は、樹季の家庭教師だと
母は言った。
それから週に数回彼は訪れて来るようになった。
樹季は彼の前ではいつも俯いている。
「xをここに代入して…樹季ちゃん、聞いてる?」
神経の先が尖って
線香花火のように
胸で小さく点滅するのがわかる。
黙っていると、その人の髪と香りが
さらに近づく。
樹季は焦って、適当な答えを言いながら
わかったふりに逃げ込むのだった。
いつしか彼は毎日訪れるようになっていた。
ある時、海を見てこう言ったことがある。
「僕は海が好きだ。
だから鳴海洋って名前なのだよ。」
彼がそう言ったとき、
母は遠くの波に視線を逃すかのようにして
何も答えないのだった。
「洋兄さん」、その人のことを
樹季はそう呼ぶようになっていた。
その日は母が出かけていた。
訪ねてきた洋兄さんは
居間で横になって
本を読んでいる。
2階から降りてきた樹季は彼に声をかけた。
「何を読んでいるの?」
彼は振り向いた。
読んでいた本を傍に置くと、
自分が体に掛けていた
水色のケットの一隅を手で持ち上げた。
そして、微笑して樹季に手招きをする。
樹季はためらうことなく彼の横に
自分の体を滑り込ませた。
いつもの柑橘系の匂いが
樹季の体を包みこむ。
「何を読んでたの?」
彼の端正な横顔を見ながら、
もう一度樹季は小声で尋ねた。
「樹季ちゃんは好きな人いるの?」
樹季の言葉には答えずに
彼はふいにそう言った。
「いないよ。」
そう答えると、
彼の指はまるでそれが相づちのように
樹季のポニーテールの髪を
優しく何度もなでる。
それは、言葉よりもあたたかく
彼女の心を寛がしていくようだった。
樹季はまるで溶けるような
睡魔に襲われていた。
あの日からもう洋兄さんは
一度も訪ねて来ない。
樹季は高校生になった。
母は家を出て行った。
年下の男と一緒だと聞かされた。
相手は洋兄さんではなかった。
父は相変わらず
小さい安価な靴を履いている。
樹季は最近夜眠れないときに
いつも同じ曲を聞いている。
(ツィゴイネルワイゼン)
「バイオリン奏者だったサラサーテが
誰もが容易には弾けないような曲を作った。
これがその曲だそうだよ。」
洋兄さんはこの曲を聴きながら、
樹季にそう言ったことがある。
バイオリンという楽器を
よく知らない樹季が聴いていても
この曲は弦が切れてしまいそうに感じる。
バイオリンを愛していたはずのサラサーテは
なぜこんなに
弦を傷めつけるような曲を
作ったのだろうか。
そして、このたたみかけるような激しい旋律を
繰り返し聴きながら
あの頃
洋兄さんは何を思っていたのだろう…
樹季には今もわからない。