樹季のこと その1
樹季が、見晴中学校で
初めてクラスを担任したのは
3年3組だ。
そのクラスの中に、津島碧はいた。
彼女は1年生のとき
ある出来事があってからは
学校に来なくなっていた。
碧の担任にならないかときかれて
ためらいがなかったわけではない。
しかし、自分が
彼女を変えられるのでは
という思いもあった。
始業式の日、碧は登校してきた。
彼女はどこにいても
目立つ存在だ。
やや褐色を帯びたショートヘアと
なめらかな白い首筋が
大人びて優雅に見える。
「津島さん、学校は久しぶりだから
疲れることはない?」
樹季が尋ねると、
「先生、私は大丈夫です。」
と、はっきり答える。
樹季は碧の姿を
できるだけ自分の視野の中に
置くように心懸けていた。
碧が笑顔を見せれば
安心できた。
彼女は次第に
クラスになじんでいると
樹季には思えていた。
だが、9月のある日を最後に
碧は再び学校に来なくなったのだ。
生徒たちへの調べでも
手がかりは見えてこない。
無為に月日が過ぎていった。
やがて秋の文化祭が近づいた頃
樹季が授業で板書していると、
後ろで大きな物音がした。
「何の音?」
振り向いて尋ねたが、応答はない。
樹季はまた黒板に向かった。
すると、前よりももっと
大きな音がした。
振り返ると、生徒の目が
一斉に樹季を見ている。
前の席に座っていた有村と
視線が合った。
彼の目が、樹季に教えるかのように
床に注がれる。
床の上にはペンケースが落ちている。
それは一つではなかった。
樹季の授業を妨害する意図が
実行されていたのだ。
「先生は、津島さんにばかり
気をつかっていると思います。」
倉崎梓はそう言い切った。
彼女はクラス委員でピアノが得意だった。
行動力もあって、皆に信頼されている。
その倉崎が授業妨害の発案者だとわかった。
「津島さんを特別にしたつもりはないのよ。
ただ、彼女には辛い体験があったことは
あなたも知っているわね。」
倉崎は樹季の言葉を俯いて聞いていた。
彼女は長い髪をゴムで束ねている。
その髪の分け目が樹季の目に止まった。
それは少しのゆがみもなく
真っ直ぐに
左右に分かれているように見える。
樹季はふと前にも同じものを
見たことがあると思った。
2年前、津島をめぐる出来事で
話をしたことがある
長内里莉に似ている気がする。
倉崎は俯いていた顔を上げると
樹季に言った。
「津島さんのことは知っています。
でもそれは2年前のことでしょう。
私たちが償うことではないと思います。」
樹季は倉崎に体を寄せた。
「確かにそうね。ただ、津島さんはまだ
そのときの辛さから
立ち直れてはいないと思うの。」
しかし、彼女は樹季の言葉をさえぎるように
「先生、私たちを平等に見てください。」
と、樹季を正視しながら強い口調で言った。
その言葉を聞いたとき、
樹季は自分が彼等に無理やりに
「押しつけてきたもの」の重さを
思い知らされたのだった。