碧のこと その1
窓を見た。
雪が
降りてくる。
雪が降るときは
音でわかる。
音が消えるので、
雪だと気づく。
もう遅い時刻だ。
帰り支度をしようとして
津島の家に電話をしなければと思った。
机の中から連絡簿を出しながら
昼間の出来事を思い返していた。
「麻田先生、麻田先生」
誰かの声が聞こえてくる。
誰だろう…
「先生」
ハッとして体を起こした。
「どうしたの?」
側にクラス委員の相田が立っている。
「先生、具合が悪いんですか?」
「ええ、ちょっと頭痛がして、
何かあったの?」
相田は少しためらう様子で言った。
「先生、津島さんがけがをしました。」
「エッどうして?」
相田の話によると、津島碧は
2時間目の数学の時間に登校してきた。
その時間は自習で、
全員が課題をしている中だった。
津島は手荒く扉を開けたらしい。
その音が教室に響いただろう…
だが、音の原因が津島だと知ると、
皆はすぐに
課題へと関心を戻した。
津島は席に着こうとして、
何かにつまずいたらしく
転びそうになった。
足元にあったのは、サブバッグだ。
彼女はそれを軽く蹴った。
バッグは隣席の有村の物だった。
蹴られたことに気づいた彼は
いきなり彼女を突きとばした。
津島はのけぞるように後ろに倒れ、
そのまま無言で座り込んだ。
相田は倒れた彼女に駆け寄り
助け起こした。
ようやく異変に気づいて
室内がざわつき始めたとき
騒ぎを聞きつけて
隣で授業をしていた戸波がかけつけ
津島を保健室へ運んだ。
その間に、相田はこの事を知らせようと
職員室へ来たのだった。
「津島がまた何かしましたか?」
樹季が話を聞き終えて立とうとしたとき
ふいに男の声がした。
教科書を抱えて、佐古が立っている。
「ええ、ちょっと。」
「相田さん、ありがとう。
教室に戻っていいわ。」
相田は佐古の方にも軽く頭を下げてから
職員室を出て行く。
樹季はその後ろ姿を見送ってから
佐古を少しにらむように言った。
「先生、また何かはないでしょう。」
「ああ、失言でした、すみません。」
佐古は色白の頬を少し赤らめて言う。
しかしすぐに真顔になって、
「何かあったのですか?」
と、尋ねた。
「ごめんなさい先生、話は後で。」
樹季はそう言い残してから、保健室へ急いだ。
保健室のドアをノックすると、
「はい、どうぞ。」
と、声が答えてドアが開かれた。
消毒薬の匂いが強く鼻をつく。
暖房のきいた室内には、
保健委員らしい生徒が何人かいた。
その中に、有村の姿もあった。
彼も樹季を見つけて
「先生、オレちょっと寒気がするんで来てます。」
と、問いかけるより先に答える。
彼は津島のことが気がかりだったに違いない。
「そう、お大事にね。」
軽く聞き流して、その場を離れた。
保健室は中ほどをカーテンで仕切られていて
その奥にベッドが4台置いてある。
窓の傍のベッドに津島は横たわっていた。
短めの髪が柔らかく頰を縁どり
長い睫毛と綺麗に通った鼻筋は
ミュシャの絵のようだ。
樹季は声をかけられないでいた。
「麻田先生」
カーテンの陰から呼ばれたので、振り返った。
養護教諭の天野が立っている。
始業のチャイムがなったので
部屋の中には誰も見えなかった。
「よく眠っていますね。」
「ええ、もう落ち着いたようです。」
「けがは、どうでしょうか?」
「たいしたことはないですね。」
「少し切り傷があるだけで。」
「よかった、安心しました。」
「でも、麻田先生…」
天野は顔を少し曇らせて
小声で言った。
「あの子は、夜はほとんど眠ってない
ようだけど知っていましたか?」
樹季は、すぐには答えられなかった。
これまで何度も津島の家には足を運んでいる。
しかし、どれほど彼女のことを
知っているだろう…
知ることを避けているのかもしれない。
そう思うと返す言葉がなかった。
「今夜、電話してみます。」
「先生、授業は?」
「ええ、ありますけど…でも」
「心配しないで、私がみてますから。」
「すみません、お願いします。」
樹季は足早に保健室を後にした。
津島碧の父は高校の美術教師だ。
家では高2の兄と父と
3人住まいであるらしい。
家庭訪問で津島の家に行ったのは
5月だった。
急勾配の石の階段を登ると
海を抱いた空間と
若葉の匂いを含んだ風があった。
樹季が通されたのはダイニングルームだ。
まもなく碧の父が奥から出てきた。
「失礼しました。手が離せなかったので。」
ジャケットに付いた油彩の染みに目をやりながら
穏やかな声が語りかけてくる。
「碧、先生が来られたよ。」
彼が奥に向かって声をかけた。
部屋に入ってきた碧を見て樹季は驚いた。
そこには見慣れた碧はいなかった。
制服の碧は固く幼く見えた。
目の前にいる碧は光を含んだ果実か花のようだ。
「先生、どうぞ紅茶が冷めますよ。」
「ああ、すみません。いただきます。」
「先生、碧が迷惑をおかけしています。」
父親に頭を下げられて、樹季は動揺する。
「先生、碧の行動については
私に責任があります。」
「あの、と言われますと。」
「この子の母は家を出ています…」
彼の目は窓に向けられた。
午後の光が射し込む窓辺には
名前を知らない観葉植物が
ガラス漉しの陽を浴びて
ものうい午睡に浸っているようだ。
ふと碧を見ると
彼女も窓を見ている。
二人の視線の先は
自分の踏み込める領域なのか…
樹季は微かな頭痛を覚えていた。