「私」の章 3
「安井さん、ちょっといいかな?」
木曜日の14時過ぎ。バックヤードで荷解きの準備をしていると、私は店長に事務所まで来るよう声を掛けられた。
勤務先の一つであるここ、コトダマ書店は駅ビル内に店を構える書店である。客足は終日ひっきりなしだが、特にこれからは学校帰りの学生達で混雑し始めてくる時間帯だ。忙しくなる前に、裏方仕事を終えておきたかったのだが一体何の用事だろう。首を傾げながらドアを開けると、応接セットに座る店長と店名のロゴの付いた真新しいエプロンをつけた見知らぬ若い女性の姿が目に入った。
「ああ、ちょうど良かった。こちら今日から働いてもらう新人バイトの久坂さん。さっきザッとは仕事内容の説明をしたんだけど、あとの細かいところは安井さんのほうからフォローしてもらってもいいかな?」
「はあ……。わかりました」
ついやる気のない返事をしてしまったが、この書店に勤務してからもう間もなく5年が過ぎる。ともなれば指導役も担っていかなければならないのだろう。仕方がないと思いつつ、こちらに向かって会釈をする彼女――久坂美冬と名乗る若い女性にそれとなく目を走らせる。
色白の肌と大きな瞳に、艷やかな茶色の長い髪。所謂「可愛い」と称されるタイプなのだろう。頬にかかるのが気になるのか、髪を耳にかける仕草をする度に、揺れるドロップタイプのピアスが見え隠れする。
「じゃあ……まずは、その髪とピアス」
「え?」
「その髪は作業の邪魔だから、仕事中は結んでおいてね。それとそのピアスもお客様によっては不快に思われる方もいらっしゃるから外しておいて」
全ての客層に向けて不快にならない様、身嗜みには徹底的に気をつける。それは接客の基本中の基本である。こんなことから教えてやらなければならないのだろうか。先が思いやられると内心呆れていると奇麗にアイメイクが施された瞳と視線がパチンとぶつかった。
「わかりました。ご指摘ありがとうございます」
明るい声で返事をする彼女は人懐こそうに微笑む。そして徐ろにピアスを外し始めるのだった。
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「で、ここに荷物が入ってくるからカートで移動するの。そして向こうのスペースで入荷数のチェックをするっていうのが流れだから」
私はとりあえず売り場フロアをざっと案内した後に、久坂美冬をバックヤードへと連れてきた。
なるほど、と周囲をキョロキョロ見渡す彼女は、持参したノートに何やら書き込んでいる。ペンを動かすその指先には、キラリと光るラインストーン。淡いピンクとコーラルカラーのグラデーションが美しい、繊細なネイルが施されている。髪を束ねてピアスを外しているものの、若い彼女の華やかな容姿は、やはり書店員としてはどこか異質であると思う。
荷解き作業は思った以上に厄介で、ときには爪を痛めてしまう事もある。長い爪なら尚更だろう。そんな思うままにファッションを楽しむことができない職場に、彼女は果たして耐えられるのだろうか。
「その爪は、少し長すぎるかもね」
「……ですよね」
ちらりとネイルに視線を送ると、同じ事を考えていたのか久坂美冬も苦笑いをする。
「でもこれ、チップなんですぐ取れますから!今、取ってきたほうがいいですか?」
「それは次のバイトまでに外してくればいいから。次は事務作業の説明するんで、こっちに来てくれる?」
今にもロッカー室へと駆け出そうとする彼女を私は引き止める。そして向かい側の事務所の中へ入る様に促すのだった。
さて、書店員の仕事はレジ業務と品出しだけではない。商品の在庫管理や発注業務も重要な作業の一つである。
「このパソコンで事務関係は行ってるから」
デスクトップパソコンの発注ソフトを立ち上げていると、その隣でシフト編成をしていた店長が顔を上げてこちらの方を振り向いた。
「どう?順調?仲良くやれてる?」
「ええ、まあ」
「ならよかった。久坂さんもね、趣味で小説書いてるんだって。だから安井さんと気が合うんじゃないかと思ったんだよね」
「……私のは、趣味じゃありませんけど」
「安井さんも小説書かれてるんですか?」
「そう。しかも安井さんは商業デビューもしてる、作家先生なんだよ」
目を輝かせた久坂美冬に店長は、ふふんと自分の事のように誇らしげに胸を張る。
「凄い!!なんてお名前で活動されてるんですか?」
「うーんと名前は……えっと、ほら、何ていうんだっけ?」
雑な話題の振り方に思わず眉を顰めるが、答えを期待する表情を目の当たりにされては拒否することも難しい。
「……小鳥遊。小鳥遊ゆづきです」
渋々名前を告げると、久坂美冬は驚いた様に目を丸くする。
「小鳥遊ゆづきって……あの、『あの日の夜空を忘れない』の?」
「うん」
「『彼女はそっと呟いた』の?」
「うん」
「……嘘?ほんとですか?」
信じられない、と呟く声が微かに震える。
滑らかな頬がみるみるうちに紅潮したかと思えば、その見開かれた目からポロポロ涙が溢れ出す。
「えっ?何?……ちょっと大丈夫?」
予想外の反応に困惑しながら声を掛けてやると、久坂美冬は驚くべき速さで私の手を取ると、両手でぎゅうと握りしめる。
「あの!わ、私、小鳥遊先生の、大ファンなんです!!!!」
熱い視線とその言葉に、今度は私が目を丸くする番だった。
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