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【311】色彩のない街で・あの日・貝殻を・予約しました。

 女記者はボイスレコーダーを鞄から取り出してテーブルに置くまでの間、録音ボタンを見ずに片手で押してからテーブルに置いた。


 記者:2021年△月■日、11:46。××ホテルの一室にて。

 では、取材を開始させていただきます。よろしくお願い致します


 老人資産家:ああ、よろしく頼む。それで聞きたいことというのは

 記者:「ジンガイ」についてです。この度日本初となる「ジンガイ」の所有者ということで、マスコミ並びに一般の方も多く注目を集めています。購入に至った経緯などをお聞かせ願えればと

 老人資産家:理由ですか。まあ理由なんてものはないさ、あれは非常に美しい物だからどうしても冥土に持って行けない金と引き替えにしたくなってしまった。勿論、美術品としての価値も高いという理由はあるが、あれを一目見てから家にそれを飾りたくて仕方なかったんだ。「人貝じんがい」は非常に美しい。貴方も一度ご覧になっただろう


 記者:はい。職業柄存じ上げています。その美しい物が、3.11の被災者家族が所有を主張しているのにも関わらず、購入を決断していますね?

 老人資産家:あの貝殻の表面にある無数のきらめきから、亡くなった被災者が写真のように見えるという話かね。それも被災者家族にだけ

 記者:無論、まだ科学的な根拠は研究途中のため、根拠としては乏しいとの見方も示す方もいらっしゃいます

 老人資産家:私は被災したのは東京にいた時だ。停電と断水、それらを経験しているから苦しみが分からないと言うつもりは無い。だがあの「人貝」は、あまりにも美しいものだ。その美しさを、被災者という不幸の旗を掲げた人間が独占して良い物じゃあない

 記者:今のが本音になりますか?

 老人資産家:もう10年になるんだ。終わったことなのさ、人は前に向かって生きるものだ

 記者:では、このたび入手される「人貝」の被災者家族からの申し出を却下したのも、その本音からでしょうか

 老人資産家:何が言いたいんだね。先程から私を非難しているように聞こえるんだが

 記者:いいえ。私はただ、被災者家族の訴えを無視してまで手に入れる価値があの「人貝」にあるとは思え

 老人資産家:君に何が分かると言うんだね!(何かを叩くような音、いきなり立ち上がったような激しい息づかい)

 あれは、あの煌めきは金塊にも匹敵する!どんな希少な宝石を持ってしてもあの美しさは作り出せやしない。海から生まれた最高級の美術品だ、それに価値を見いだし、手に入れることの何が悪い


 記者:海から生まれた自然物とも言えますね

 老人資産家:だから海に戻すべきとでも言うのかね?ばかばかしい、海獣にあの美しさが分かるのか?魚に、貝に、くらげに、あの美しさが分かって保護するとでも言うのかね?冗談は休み休み言え、あの価値が分かるのは人間だけだ。だから人間が持つのには相応しい

 君は私を批判しに来たんだね?それならば帰りなさい。私は君に付き合っている時間は無い。わざわざ人を馬鹿にしに来るような暇な君にね。帰りなさい。「ジンガイ」は私の物なんだ!

 記者:分かりました。お時間ありがとうございました

 女記者はまだ若く、口紅は赤く髪は赤に近い茶に染めてピアスが唇の端にあけられている。髪型は編み込んで綺麗に纏めているものの、量産型の会社勤め人としては奇抜だ。勤勉さを示す眼鏡もファッショナブルな柄で、学芸誌よりもアパレル関係の雑誌かと老人資産家は名刺をもらったときに思ったが、フリーライターだと名乗った。記者の所属する新聞だか雑誌会社に圧力を掛けようにも、シンプルな名刺には彼女の名前と肩書き、裏にはメールアドレスと電話番号のみ。住所も分からない。こんなものゴミだと、記者の淡々とした詰問を思い出して腹が立ちながら、老人資産家は名刺をホテルのゴミ箱に捨てた。


 「人貝」とは。新種のオウムガイほどの巨大な貝殻を指しているもので、今年になって唐突に全世界の海に浮上したのが次々報告されているのだ。特筆すべきはその美しさにある。螺鈿に使われる真珠層に似た、光沢物質を含んだ鱗状の貝殻は海面で照りつける日光で輝いて、灯台のようにぴかりぴかりと光っていたと漁師の撮った動画やレジャーでたまたま見つけた者の動画が、今や動画サイトでバズる対象になっている。美しい発見に人々は瞬く間に魅了され、富裕層による高額の取引が進み、一般人の目に触れるための展示会が世界中で組まれ、他の貝殻による工芸品の値段も吊り上がる一種のバブルを生み出した。人貝と呼ばれている所以はそれが規格外に大きいのもあるが、もう一つ、この貝殻には不気味な動画が挙がったのが原因だった。

 漁師は魚を捕りに海に出ているが、副産物的に人貝を探す時はスマホやカメラで録画をしながら撮るのが常になっていた。金に繋がるのなら70を超えた海の男でも慣れないスマホを慣れた海の上で構えた。ある日、穏やかな内海で漁をしている者達が、明け方の漁を終えて岸への帰路でぴかぴかと灯台の如く光るものを見つけた。朝焼けの少ない日光でも光り輝くそれは、間違いなく人貝だと色めき立ち、漁師の一人がスマホを構えさせて船長はそちらに舵を切って横付けする。撮影者の漁師があっと言葉を漏らすのが記録されていた。人貝は確かにあったが、いつもは中身の無い貝殻だけなのに、その人貝には中身があったのだ。海面の波で輪郭が揺れているが、それはまっしろな足の指がはっきりと貝殻から外に出ていた。オウムガイの貝殻から出ている触手部分が、人の両足が揃ってバタ足をしている。貝殻に幼い子供ほどの体が収まっていたのだろう、人貝は海面の上にすっかり殻を出してしまうと、にゅるんと白いからだが抜け出た。その輪郭も揺らいでいたが、人の形であるのは間違いない。まっしろで体毛がないが、頭が一つで腕が二つ、足が二つ。そうして人貝の中身は海底へと凄まじいスピードで潜っていき、見えなくなる。震える手で貝殻を掴み、思わず中に何もいないことを確認する漁師目線の動画がこの概要だ。当初はこれは出来の悪いCGだとさんざん炎上したが、次々と貝殻を海面に残して消えていくまっしろな人の姿が目撃され、それは人型の貝殻だと言うことで人貝だと呼ばれるようになった。新種の貝のあまりに衝撃的な内容に、人々はその貝への興味を失うかと思われた。だがその学者の中でも信憑性があるとないと派閥が別れてしまい、情報過多の人生を歩む世代にとってはどちらも良くなってきたようで、30代以下は綺麗ならいいんじゃないかという意見が半数を占めた。日本では世代を問わずに募った意見として不気味なものであるけれど、これから新種の解明がされていくのだろう美しい貝殻としか思わないようだ。

 人貝にはさらに曰くがある。こちらは不気味では無く、もっと非科学的だった。展示会に大勢が押しかけた中で、ある中年男性が目玉である本物の人貝をショーケース越しで見た時に泣き崩れた。膝から落ちて号泣する彼の横で、中学生か高校生の制服を着た娘が、手では溢れるだけの涙をぼろぼろと零して肩をふるわせながら一心に人貝を見つめていた。何ごとかと学芸員が駆けつけた頃に、二人は人目を憚らずに泣いて、大勢の人間が平等に見るはずのショーケースに縋り付いていた。親子の周りは引いて怖がる者、見えないだろうと詰め寄る壮年の夫婦、説得してどかそうと試みる優しげな雰囲気の者と混沌としている。警備員と学芸員がなんとか親子をその場から引き剥がしてバックヤードに連れて行くと、衝撃的な話が二人の口から飛び出した。親子は3.11で被災し、男から見たら妻を、娘から見たら母を津波によって亡くしていた。だがその体はまだ見つからずに海から戻らないでいるという。全てを無くして全てを諦めて、親戚を頼り他県に移ってからはずっとそこで暮らしているがその質素な暮らしぶりはともかくとして、人貝の貝殻の無数に細かい鱗状ひとつひとつの真珠層に、亡くなった母の笑顔が映っていたという。そこまで震える声で気丈に応対していた娘が、肩をふるわせてソファに泣き崩れた。大人達は茫然として掛ける言葉が見つからないまま、父親が娘の肩を抱いて揺らしなが娘を落ち着かせようとするが、娘はなかなか泣き止まず、涙混じりの嗚咽がしゃっくりに変わった辺りでお騒がせして申し訳ないと父親は頭を深々と博物館関係者に下げて、泣く娘と連れだって博物館を出た。

 この事件が明るみになった頃、各地の博物館や美術館に展示を見に来た3.11被災者家族から次々に「家族の顔が見えた」「写真のように記憶のままを映していた」という訴えが絶えず現れた。世論としては被災者遺族に人貝を貸してやれば良いという声もあったが、それはあくまで多額の金が動くのを理解した上での社交辞令だ。善なる一般大衆らしさを演じた声であった。10年という歳月が、少しずつ被災者以外の人間の記憶を薄れさせていくので、遺族関係者以外の権力を持った誰かが富裕層の取引を止めさせることも無く、かといって展示会を中止にする意向は博物館側としても出ないままでいる。

 目に出来る人貝の全てが、いずれも海外の富裕層が買った物を貸し出しという形で世界中を回している状態だった。だが今回日本人で購入者が出たということで、日本でも展示が気楽に見れるのではと期待が多く寄せられていた。注目度が高いのは重々承知している老人資産家は、女記者の取材も快く受けた。記者の意図がなんなのか分からず、ただ自分を褒め称える記事を書くと思ったのだろう。だが真相は違っていた。ホテルを後にした女記者は、無表情のままだった。もともと感情が表立って出るタイプではないので、資産家に怒鳴られても彼女は表情を変えずにいる。女記者がスマホを取り出して、どこかに架けた。コール音が数回鳴ってから、通話が始まる。

 「もしもし。ええ、駄目だった」

 「そう」

電話の向こうは女の喋り方に似ているが、男のような声にも聞こえる。

 「ごめんなさいね。意志は固そうだから、一般公開はもちろんするんだと思う。でも、被災者に配慮は多分しないでしょうね」

 「分かった。嫌な思いさせてごめんね、疲れたでしょ」

 「仕事だから」

 記者がそこまで言うと、電話の切り時だろうと判断して向こうから切電する。記者もそれは思っていたが、幾分か棘のある言い方に少し自分に嫌気が刺した。だがその反省は、仕事の終わった湯船の中に入浴剤と一緒に溶かせばいいものだ。すぐに次の仕事に取りかかるために女記者はテキパキと歩き出してホテルから離れていった。



 「ある記事

 人貝の日本初上陸のニュースを聞き、喜ばしいと思う人が殆どだろう。だが同時に被災者遺族に何も思わないかという批判の声も無視できないほどに多く上がっている。金で楽しい思い出は買えるが、金では取り戻せない思い出を遺族に戻すべきではないかとの主張は当然のものであり、あの震災から10年経っても忘れられぬ記憶が私たちの脳裏に残っている。来日する人貝の遺族は何を思うのか、これから述べるのは私が取材した遺族の声である。


 遺族1:ヒナシハジメさんの取材

ヒナシさんは都内在住の大学生だ。最近20歳を迎えたばかりだが、お祝いをするはずの親はいない。ヒナシさんの家は母子家庭で、母親は津波で流されて行方が今も分からないままだ。もともとは宮城県に住んでいたが今は祖父母の援助で東京の学校に通っている。学資保険などの準備を母親は怠らなかったので、今の自分があるとヒナシさんは母親を思ってか寂しげに笑った。

 「頭が良くて恰幅が良くて、男勝りって言うのかな。自慢の母親です」

 ヒナシさんは長いツインテールの黒髪を揺らしてそう言う。着る服は流行を抑えているが、安い物を選んで丁寧に着回している。質素な暮らしぶりだが大学生らしい化粧も欠かさない。だが肩幅がどうもか弱い女子という骨格では無く、リップで色づいた唇は女性らしいが顔の在り方は男性であった。ヒナシくんは性同一性障害だ。幼い頃から女の子であったが、母親がそれを咎めることは無く、今は育ての親である祖父母も認めてくれているという。生前の母親が祖父母にそのことを相談し、この家の家系は途絶えるかもしれんねと明るく笑った母に、祖母は変な男に引っ掛かったあんたよりマシねと呆れたように返した。ヒナシくんが東京に出てきたのはホルモン注射などがしやすいからであったが、その費用はアルバイトなどで極力祖父母の手を煩わせないようにしているという。世間から見れば苦学生であるが、ヒナシくんはその生活を楽しんでいるようだった。だが最近不況のせいでアルバイトもだんだんと減ってきて、そういったケアが出来ない。だが新宿二丁目やタレントで稼ぐというよりも、ひっそりと女の子として暮らしたいと願っている。普通でありたいと願っているのだ。そんなヒナシさんが今回来日する人貝に何の関わりがあるかというと、読者諸君ならもう気付いたであろうがヒナシさんがその人貝の遺族なのである。人貝は不思議なもので、パンフレットや冊子などの印刷された紙には遺族の面影は映らないらしい。動画だと五分五分であり、直接目にした遺族だけがその被災者の面影を汲み取ることが出来る。だからこそ展示会に来た親子はパンフレットの写真だけでは気付かなかった。直接展示会に来て初めて面影に泣き崩れたのだ。ヒナシさんがそれに気付いたのは、来日を密着したワイドショーだった。何の気なしに昼の番組を、朝の講義が終わって夕方のシフトまで時間が空いたので家で自炊をしていた時のこと。恭しく運ばれる人貝がマスコミ用に表に出たときに、あっと叫んだという。ヒナシさんの母親の顔が貝殻に映っていたのに気付いて、それからどこに運ばれたのかヒナシさんは無我夢中で調べた。だが大学生ではどうにもならないこともあり、本誌の記者に助けを求めたのである。

 そこで女記者は前述のように資産家にインタビューをしたが、遺族への公開は望んでいないようだとひしひしと感じた。まるで自分の言いなりになる美しい若い人間に入れ込むような姿勢が不気味でもあった。だが人貝の美しさはえもいわれぬもので、代替品が無いのも取材をしてきて女記者はよく分かっている。だが彼女は何にも入れ込まないように淡々と取材を続けていた。

 ヒナシは女記者から運ばれる美術館について聞き出すことが出来た。講義を聞いてバイトをして、それ以外に笑うことを極端に減らしていたので友人やバイト先の店長に心配をされたが、覚悟と決意が必要だったのだ。ハジメは男の体に生まれついて、女になりたかったのを同級生や自分より高学年の男共に馬鹿にされることがあったが、とうとう傷を作って学校から帰った時に母親に号泣してぶちまけた。母は怒った顔をして、傷付けてきた子供とその親相手らを学校に呼び出すことを担任教師やはてや校長を巻き込んで実行、場を作って当日は仁王立ちして迎え撃った。当時から母子家庭だったので幾分か相手の親は下に見ていたようだが、母の理論は正当でその場で誰も反論できなかったのをハジメは覚えている。まず人を無闇に傷付ける大義名分は無いこと、性別については不安定かつ一定しないものであるという認識が無いことが無知であるということ。その二点について納得出来る反論が出来る者は誰もおらず、結局は母が全員にハジメに謝らさせた。お母ちゃんの手にかかればこんなもの、と母は当時を振り返ると豪快に笑ったものだ。当事者たるハジメよりも、親身になって怒って戦ってくれた母。学校の制服はスカートかズボンかの二択だったが、時代が時代だとスカートでも選択させてくれる母校に思い出は詰まっている。小学校は完全に避難所となってしまったが、中学校はなんとかスカートを履いて通えた。入学当時は体がまだ華奢だったから良かったが、成長期により体格的に似合うのはズボンだと、自分でを判断を余儀なくされる時に思い出すのは母との戦闘経験だ。足を細くして、似合う方法を模索して楽しく過ごした。祖父母もあんたがいいならいいと認めてもらった。高校出たら働くと祖父母に宣言したが、あんたの母親が大学に行けと言ったから行きなさい、と祖父母は援助をしてくれた。恵まれているとハジメは自分でも思っている。だからこその決意や覚悟が必要だった。人貝は都内のこじんまりとした美術館に一旦運ばれ、そこから大型の博物館や美術館に展示として貸し出されると記者は言った。ただしその美術館に運ばれる時はマスコミは呼ばないというオフレコの内容も教えてくれる。


 「私は止められないけど、ここが一番の狙い目だろうと思う。マスコミに感づかれたくないから、最小限の警備らしい。でもどちらにせよ危険だよ」

 「分かってます。でも、もうしょうがないから」

ふふっと場を和ますように笑うハジメは、中学時代に華奢な少年の線が消えて少しずつ男へと成長している。20歳だと、無限のように湧き出る欲望は金よりも暴力で解決できると勘違いして、渦巻く抑圧された感情や欲を暴発という形で社会に乱射してげたげた笑う、子供と大人の境の多感な時期だ。だがハジメは男に愛されて欲望を満たしたいというよりも、いかに女の子らしく生きられるかに捧げている。欲望はあるけれど、男らしい欲望はかえって嫌悪するようになっていた。ハジメは人貝を奪う気でいる。その企みに気付いた女記者だが、止めるのも無理だろうと思い、淡々と情報だけ渡していた。それが何かの罪になるだろうけれど、フリーランスの女記者には怖いものがあまり無い。ハジメは彼女に礼を言った。

 「ありがとうございます」

 「うん」


 女記者はマシな回答が出来ただろうかとその晩の湯船で考えた。考えても答えが出ないが、総合的に記憶の中のハジメの表情を穴が開くほど観察し観察し、総合的に大丈夫だろうと考えついてもまだ疑念が湧いてきたので、息を大きく吸うとほほいっぱいに空気を貯めて湯船に潜った。頭の上にもお湯が触れたので完全にそこは湯の中。こんなにあたたかったのであれば、きっと誰も死なずに澄んだんじゃ無いかと思う安全な湯船の中で、呼吸が苦しくなって女記者は思わず水面から顔を上げた。やっぱり苦しい。水の中では人は生きられない。改めて女記者は湯船を出た。脳裏には真っ黒な海の水がすべてを。



 ヒナシさんは決行の日に、無事願いを叶えました。

人貝を抱えたのは初めてだったが、赤子よりも大きい貝殻を抱えて東京の人波を逃げるのは困難だ。路地裏に逃げ込み、逃げた疲れから震える膝の上に置いて改めてハジメは貝殻を眺めた。美しい真珠層の鱗に、写真を何枚も並べたかのような母の面影が映っている。まず目に入ったのは怒った母の顔。そうだよね、ごめんねとハジメは思わず謝った。確か記憶の中ではいたずらをして怒った時だ。誕生日に名前を書くときに使ったチョコペンが余っていたので、それをホワイトボードに書いて立体の文字だと友達と楽しく遊んでいた時だ。

 ホワイトボードは付属のペンで文字を書き、付属の黒板消しで消す。あまりにはしゃいでいたので、夕飯を作っていた母が静かにと注意しにガラス戸一枚で隔てていた台所から顔を出す音が聞こえたので、慌てて消そうとしたらホワイトボードがチョコまみれで汚くなってしまった。おまけに消した道具にもチョコがべったり。その異変を目にした時に母が怒ったときの顔だ。写真に残してもいないしカメラも回していないが、確かに遺族の記憶の中にある顔だ。人貝の貝殻にはそういったものが見える。だから遺族は必死に主張しているのだが、それが他人に見えないことから思い込みや錯覚だろうと言われ、また確証が無いのに遺族だからと信用して渡すことが出来ないというのが現状だ。だからハジメは奪うことを選んだ。貝殻に傷が付いていないか顔を近付けて念入りに確認するが、無傷なようだ。笑いかける母の顔、泣いて喜んでくれた顔、10歳になるまでの記憶だがどれもどれも金では決して買うことのできない思い出がきらきらと真珠層の鱗の上できらめている。ハジメの目から涙が零れた。これを貸してくれと頼み込んだが当然のように断った学芸員に、彼は殴りかかってしまったのだ。髪を捕まれたりひっかかれたのでハジメも無傷ではないが、女同士の戦いであったはずなのにハジメは男の部分で女学芸員をこぶしを作って殴っていた。気付いたときには、嫌がっていたはずの身体能力で女性を傷付けてしまったのだ。自分にはもう男の部分は無いと思っていたのに、20歳という混沌とした感情を暴力で表現して、利用してしまった。ハジメの手にはひっかき傷に自分の血が滲んでいたが、その爪先にはネイルがあるのに手の関節部分に相手の血らしきものが付いている。女学芸員はみごとなまでに吹っ飛んで、自分の視界で認識したときには床に倒れていた。唐突な暴力に自分でも混乱しているうちに、学芸員は身の危険を覚えたのか110番をしたのだろう、ハジメのいる路地裏には大勢の人間が焦って走る音や声が聞こえてくる。その中にあの学芸員もいるのだろう。


 「お母さん、ごめんね。わたし、へんなとこで男を使っちゃった。最悪だよね」

 貝殻を慈しむようにハジメは撫でた。母が握り返してくれる気がしたが、貝殻の感触があるだけで、ハジメは溢れる涙と共に漏れそうな声に堪えながら、貝殻を抱きしめる。まだもう少し母と居させて欲しいという願いだった。だから見つからないように唇を噛んで声を押し殺す。


 女学芸員は腫れた頬を氷枕で冷やしながら、警察に聴取を受けながら放心としていた。彼女の父はある程度成功した事業者だ。だが父の力を借りずに自力で個人が好きな展示を開ける場にと都内に小さな美術館を作ったのだ。まだ画廊やワークショップに近い状態であるが、いつか個展に大行列を作りたい、それが女学芸員の願いだ。その願いが叶うのは先だろうが、目玉であろう材料が唐突に転がり込んできたので、知らせを聞いた学芸員は歓喜の雄叫びを上げた。老人資産家と父が知り合いで、お忍びで人貝を預けたいと申し出があったのだ。これから展示会などがあれば優先的に協力者の名前として知れ渡るだろう。パンフレットやチラシにこの美術館の名が載るなんて最高ではないか!彼女は二つ返事で受け入れたが、直接老人資産家との打ち合わせにのぞんだ時、釘をかなり刺された。傷を付けないこと、誰にも渡さないこと、でなければ今回の見返りに行う定期的な美術館への援助を打ち切ることだ。小さな美術館でも運営費用は嵩む。学芸員は全てを必ず実行すると約束し、警察沙汰にならぬように誓っていた。それが人貝を運んでいたときに、突然自動ドアからやって来た大学生に土下座され断った。こちらとしても生活と夢が掛かっている。遺族でも渡せるわけも無かった。自分もあの時は被災者だが、もうその記憶を忘れはしないけれど囚われたくないのだと言った途端、大学生がすっくと立ち上がる。格好が女の子だったが、唐突に見上げる背格好は男だと本能が告げた。その男が敵意を持って寄ってくるのだと知り、人貝を抱え込んで学芸員は逃げようとしたがすぐに追い付かれ、もみ合いになる。遺族感情を無視したいわけではないが、過去への記憶でメシは食えない。そのうちに殴られて、気付いたら美術館の床に体を打ち付けてすぐに起き上がれなかった。ぐらぐらする視界で、大学生が逃げていくのが見えた。人貝を持って。

 待って、と声を出したが40を超えた体はそうそう早く起き上がれない。自分の運動不足を憎んでも仕方ないが、警察を呼んで捜索してもらっているうちにだんだんと頭が冴えて肝が冷えてきた。援助を打ち切られるかもしれない資産家からの恐怖に、傷があったら取り返しが付かないという美術界からの恐怖だ。

これだから周りが見えていない被災者って!と自分でも最悪なことを呟いていると思ったが、学芸員は頭を抱えてそう言った。近くで聴取をしていた警察官が少しだけ眉をひそめる。


 ヒナシさんはしばらくそうしていたが、ぬくもりがいっこうに返ってこない人貝がただの無機質であって、母じゃないんだと踏ん切りが付いたと話してくれました。人を傷付けたのは申し訳ないと思うが、盗んでも母とは会えないことを明確にしただけで、罪を償わなきゃという良心が途端に湧いてきたという。母が生きていたらきっと同じ事を言ってくれたと思いますとヒナシさんは寂しげに笑う。そして人貝を大事に大事に抱え、巡回していた警察官に声を掛けた。泣き笑いの顔だったので警官は当初訝しげに思ったようだが、脇に抱えた人貝に気付くと逃亡犯だと確信したらしい。

 「すみませんでした」

 ヒナシハジメさんはそう言ってもう一つ駆けつけて来た警察官に人貝を子供を預けるように大事そうに渡し、声を掛けた警察官に向き直ると慎ましやかに両手を合わせて差し出した。

 「人を殴って、盗みました。ごめんなさい」


 ヒナシさんは現行犯逮捕され、今は罪を償うために刑務所にいる。弁護士や被災者遺族団体が彼を救おうと何度も刑を軽くするような提案をしたが、全て首を縦に振らなかった。罰は受けなければ母に申し訳ないと、男として成形された顔で化粧もないが、本誌記者が面会したときはすっかり女性の笑った顔になっていた。結局性は曖昧模糊なものなのだ。そしてそれは人貝にも言えることだ。遺族にだけ見せる幻影は、神か何かが我々に見せる情けのようなものなのだろうか。おまけに貝殻をわざわざ海面に捨てていく胎児のような中身について、我々はまだ何の理解も出来ていない。それは人の魂なのか新種の貝なのか、未分化である我々はどうしてもその在り方を神になぞらえてしまう。だからこそあの天災が、神の起こしたものであり我々が超える試練なのだという言葉に騙されてしまうのだ。

 人を傷付けたヒナシさんを庇う気は無い。学芸員が運営のために最小限の設備で人貝を守ろうとしてもがいたのも、金を出して資源を保護しようという老人資産家も誰も悪くない。だがこの後味の悪さは何だろう。人貝など見つからなければ良かったのではと、記者が取材を続けてきて思ったことを問えば、ヒナシさん達は口々にそんなことは無いと言う。あれがあったから、忘れかけようとしている記憶が呼び起こされた。感謝していると。そして人貝を被災者遺族へと活動する団体についても評価できるが、必要以上に権利を有したいとは願っていないと。もちろん取材に応じた遺族のみの意見であるため、これが全員の総意ではないが、彼らは次にこう口にする。もう終わったことだとよく聞くのだが、私たちにとってはあの10年前の天災は終わっていない。だが忘れてしまうのは致し方ないことだと理解している。だって我々だってまだ津波が渦巻く中で屋根で震えているわけじゃない。だが、忘れないで欲しい。


 「被災するかもしれないこと、そして被災したこと。あんな天災があったんだということを忘れないで欲しいです。そして、私たちみたいに悲しい思いをして欲しくありません」

 ヒナシハジメさんはそう言った。あの震災をもう終わったことだと言う権利があるのは、被災者達だけで外野はそう言ってはいけないのだと私は感じる。あれほど傲慢な言葉はないだろう、自分がもう忘れたのを正当化したいだけの言葉である。そして忘れてはならないのだ、天からの試練でも何でもない唐突で巨大な自然現象に、大切な人を失った人達が大勢いることを。」


 そこまで書いて女記者はパソコンの画面が少し滲んでいるのに気付いて、眼鏡を外して目尻に小さく溜まっている涙を指で拭った。

そして続きを打つ。

「本誌では可能な限り人貝と遺族の関係性について取材を続けていく。それが三十一ヒナシハジメさん含む遺族の思いを受け継ぐからだと私は信じている。

あの日を忘れない。」


原典:一行作家

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