成長計画
――Claudia――
暗く、薄暗い。立つのがやっとの狭いこの空間がクロウディアは好きだった。誰かが笑ってから、誰かが笑う。外からの子どもたちの喧騒はこもっている。ひとつ遠く、無理して付き合わせなくていいという、断絶の安心があった。
ニコが小学校に入学し、クロウディアが小学四年生の頃の話だ。休み時間が終われば外に出て、何事もなかったかのように席につく。周りはクロウディアの存在に気づいていたが、本人が一歩退いているのだと判断して、ただ放っておいた。
「書き写すだけじゃダメだぞ」
算数の授業中には、こんなことを言われた。その手元には、問題の答えだけが列挙されたノートがあった。
「どうせなら途中も写せばいいのに。手抜きの仕方が中途半端だなぁ」
「…………」
言葉を発する機会は少ない。理由の説明がそもそも伝達しないことは経験で分かっていた。
「いいか? こういうのは計算結果が欲しいからやってるんじゃなくて、何かを学んで使えるようにするトレーニングみたいなものなんだ。トレーニングの仕方が合ってるかを見るのに、途中式がないと分からないんだよ」
先生はクロウディアのノートを人差し指でトントンと叩いた。
「次の問題から、途中がないとバツだぞ。そうだなぁ。まずは一行あればいいよ。問題、途中の一個、答えだ」
「…………はい」
あまり従いたくはない指示だった。過去にそれで、いやな経験をした。
予想通り、その先生もまた、授業後に教卓へクロウディアを呼び出した。
「これは……どういうことなんだ? クロウディア」
「…………」
「問題と答えは合ってるんだ。『250×8÷2』が1000になるって」
先生は座ったまま振り返り、背後の黒板に式を書く。
「で……『8÷2』を先にやってから、『250×4』にしたら簡単になるって問題なんだが、この……これはいったいどういうことなんだ?」
先生がクロウディアのノートを指さした。そこにはいくらかの線が引かれた落書きのようなものがあるが、彼は向きと交点の法則に気づかなかった。
そもそもこの工夫して計算するという行為は、250という数字が1000を4で割ったときに登場するという経験があって初めて思いつく「経験の計算」であった。
クロウディアはあらゆる場合に適応可能な、『非経験の計算』を目指したかった。この筆算が工夫ではなく、算術の再開発であるとは思っていなかったが。
「その、計算しながらラクガキするのは器用だが、先生が言ったのはこうじゃないんだよ」
「……書いたわ」
「だから、ラクガキを書けとは言ってない…………。ああ。じゃあ、ラクガキは禁止だ。いま、ちゃんと禁止したからな」
やはり、伝わらなかった。失望はない。退屈なだけの時間だった。
知能指数テストを終え、無口でボウっとしたクロウディアが記録にある人類の中でも最高峰の頭脳を持つことが判明したのは、妹であるニコの頭脳が同じ歳の中でも平均以下である判った頃だ。
クロウディアは計算するとき、ときおりマウと名付けた何かを使っていた。三・一四から始まらない円周率であると判明したのは、クロウディアが家でケーキを切ったときだった。
形が全く対象とならない四切れのケーキが、十グラム単位で同じ重さになっていた。先生の言うことを聞かない無口な不良少女かと思えばとんだ天才であったと両親は驚き、ニコにも期待を込めて病院でIQテストを行った。
方や同じ言語たちを共有できない子であり、方や言葉たちを身につけるのが遅い子であった。正反対の二人を前に悩む両親の吐息たち。
「片方に寄りすぎちゃったわね」
母の冗談めかした言葉に、父が片方のほうれい線を深くした。
「冗談でもそんなことを言ってはイカンだろう」
「ええ。でも、そう言って笑い飛ばせるようになって欲しいじゃない」
二人には致命的なほど知能の差があった。これからの生活、片方だけを応援してはそうじゃない方が可哀想だ。
だがニコに力を入れたところで、努力で追いつけない存在がすぐ目の前にいて、果たして勉強が続くのか。クロウディアの才能を潰す結果にならないか……。
大人になれば、差のある人間と一緒にい続けなければならない残酷さが分かるものだ。自分が外れた子どもという存在に、もしかしたら割り切ってくれるかしらと、子の親が他人事みたく思っていた。
「わたしは小さいころ、こうじゃなかった気がするわ」
「俺だってそうだ。どうしてこんなに似なかったんだ」
ニコはオモチャを手に持っていた。それがいった何のオモチャなのかさえ曖昧なまま、オノマトペで味付けをした想像をたしなんでいた。
クロウディアはテーブルで何をするでもなく、コップを両手で持っていた。外から見えない領域へと、ただ深く思案しているだけだった。
その思考が、ふと中断された。
「……どうして、似るの?」
質問に、両親は固まっていた。
「いや、それは……」
ふたりとも答えられなかった。「わたしたちの子だからだよ」と、普通の子どもなら即答しただろう。だが――似なかったという話をした直後では、いらない誤解を招くだけだ。
「…………ふつうの子どもは、なぜ親に似るの」
その思考を読まれたんじゃないかと、ふたりはお互いに顔を見合わせた。
「なぜかは分からないが、子は親に似るって言うんだよ、昔から」
「そう、ね。あとほら、子は親の背を見るとも言うわ」
「……そう」
それだけだった。親は、そう答えたのが正解だったのかどうかも分からないままだ。現世の人間がDNAによって遺伝し、進化を操作できると分かってなお、地獄ではどのように遺伝が起こるか分かっていなかった。統計的傾向が分かっても、まだ操作はできていない。
ただクロウディアは、ちょっとした足がかりを得ていた。
それを最初に話した相手が、他でもない、ニコだった。父がT.A.S.の所長として働き、母が買い物に出ているときのことだ。
「……ニコ」
呼びかけて、曇りのない大きな目がこっちを向いた。そこに、クロウディアがボールをそっと放った。ニコはそれをキャッチして、目を細めた。
「ぼーる、なげる!?」
「……話をしたいの」
また考えていた。ボールが飛んでくれば、キャッチすることを。
人は、知っていることを実行する。生まれたばかりの赤子が鳴き声で不快を知らせること。笑う友だちに笑うこと。
投げ返したボールに反応しない姉に首を傾げること――――後天的学習。遺伝により得られる先天的学習とは異なり、一般的に想像される〝学習〟という行為だ。
中には生まれ持ったメソッドもあるだろう。人間が形成されるとき、臓器が精密に形作られることと同じく、心も精密に形作られるのだ。だがいまは、その話ではない。
生物というものが生き残り戦争によって先鋭してきた中で、その瞬間瞬間のインスタントな環境を生き残るために学習という力を手にした。それが子は親に似ることの因子であることは想像に難くなかった。
野生の中で生き残り続ける親という存在は、生き残りのための学習データが蓄積された〝現環境の対応マニュアル的存在〟だ。生き残るか否かの博打を続けて学ぶよりも、状況に対してこの行動を行えば生き残ることができるという、物言わぬ指南書から学んだ方が手っ取り早く効率的だ。
「……やだ」
ニコはそれだけ言い、また座ってオモチャ遊びに戻った。
一方のクロウディアは、ニコの頬を叩いた。
「――え」
殴られた頬を片手で抑え、最初は見開いた眼で姉を見ていたが、少しずつ潤ませて眉をひそめた。
「なんで……」
「…………」
「なんでっ!」
大声を出すニコの頬をまた、叩いた。
頬を抑えながら、後ずさる。それを追ってまた叩いた。
「いたい! なんで!?」
「…………」
「やだ!」
また、叩く。
まずは、追い込めなくてはならなかった。パニックは、判断能力を奪うために必要なことだ。
「……言うこと、聞く?」
やっと涙を流し始めた目が、小刻みに、首を縦に振った。
クロウディアが手を振りかぶると、ニコは両手を上げて身を守った。
「なんでぇっ! いうこときくのに!」
「……わたしの名前を呼んで」
「おねえちゃんやめて!」
「名前を、呼びなさい」
ニコの左腕を引き、その肘と手首をむりやり床に押さえつけた。
「誰に従うべきなのか。誰に逆らってはいけないのか。言いなさい」
「クロウディア! クロウディアおねえちゃん!」
肘の少し上を膝で固定し、ニコの手首を両手で持つ。
「クロウディア! クロウディアっ! やめて! おねえちゃん!」
歳をとった:生き残りのデータベース形成に成功した個体に目をつけ、その姿を学習することで、同じようになったときに生き残る確率は上がる。
ならば――同じになれるよう、心が成長を予約するのではないか。それが、クロウディアの疑問だった。
支配者になることは、その下準備にすぎない。
肉の中で折れる骨の音は、知っていたが初めて聞く音だった。
――Nico――
ああ、そのときに、か。
それが、話を最後まで聞いて思ったことだった。ニコは無意識に、左腕をさすっていた。
「両親とも、わたしが転んでオモチャを下敷きにしたから腕が折れたと言っていた。わたしはキミに折られたことは覚えていたが、なぜそこに至ったかを覚えていなかった。うまくやったのだね」
不思議と、怒りはなかった。悲しみも、なにも。
他人事のように感じていた。
「…………お願い…………嫌わないで……」
クロウディアはうつむいて号泣しながら、テーブルに放られていたニコの右手を、両手でしっかりと掴んでいた。
ふと横を見れば、口元に手を当て、泣きそうな顔をしたカイの顔。
――キミのが、よっぽどショックを受けているじゃあないか。
「この戦いは、キミからのパズルばかりだった。それ以前もだ。ずっと、こういうことをしてきた」
定期的に、研究勝負のようなものを申し込まれていた。クロウディアが檻の中で考える理論の瑕疵を見つけることが大半だが、勝ったことはなかった。
それでもそれは、不器用なクロウディアなりのコミュニケーションなのだと思っていた。そうじゃなかったとすれば――。
「すべて、実験結果の確認だったのか」
――言葉にしたとたん、ひどく、寂しくなってしまった。
「……違うわ。……あの頃のわたしは、幼かった」
「幼かったから、なんなのだ」
「……実験するまでもなく分かることだったわ、こんなこと」
「人生ひとつ支配しておいて、それか」
クロウディアは答えなかった。
「カイ君」
「えっ、あっ、はいっす」
いつもの間抜け面とは違って、ひどく頼れそうな顔をしていた。自分のことはてんでダメなクセに、なんて似た者の自分が思っていた。
「今の話は?」
「ウソだって思うところはなかったです……」
「そうかね。愛しているだのと言っているところは?」
「そこもっす」
ならば、実験の確認はしなかったのだろう。
「それで、わたしの人生のどこまでを〝予約〟したのだ」
「……その期間はもう、終わっているわ」
「……そうか」
ニコはただ、小刻みにうなずいた。
「なぜその実験をしようと思った」
「……疑問だったからよ」
「結果はどうだ?」
「……成長予約の有効な手法が分かったわ。でも、それよりも、愛せるあなたになったことが……何よりの成功だわ」
「…………そうかね。ま、とりあえずアタマの作りが性差や人種で変わらないなどという、カルトじみた間抜けな主張をしなくて一安心だ」
「……ハードウェアが異なれば出力も異なるわ」
「分かっている。同じ人種同じ性別だろうと、良し悪しがある前提を知らんほど馬鹿ではない」
ニコは席を立つ。クロウディアは言葉を発さなかったが、ニコと目線が同じ高さまで立ち上がった。
「ところで、グレートライフルの拡張は終わったのかね? こっちはまだでちょっと焦っているのだが」
「……そっちが終わってからでも……」
「分かった。その折には連絡しよう。キミが脱ぎたがっている靴も、そのついでに始末しようではないか」
「……えぇ」
カイがおずおずと立ち上がってテーブルから抜けると、ニコもすぐ抜けた。その手を、クロウディアがまた掴んで止めた。
「また会うだろう。そう慌てるな」
ニコが言えば、クロウディアは真っ先にカイを見た。
「えっと……」
「構わんよ、事実を言っても」
「そ、そっすか? ……ウソじゃないみたいですよ、クロウディアさん」
彼が言えば、細い指からするりと解放された。
――――彼女が誰かを信用していることが、一番信じられんがねぇ。
「では、失礼するよ」
よく分からない状況に、いつもつく見張りは棒立ちのままでニコたちの背を見送っていた。
帰り道、車まで向かう途中、カイが意外とでも言う顔でニコと来た道とを見比べていた。
「なんか、大丈夫そうっすね、ニコさん。けっこうヤバそうなカミングアウトに聞こえましたけど……」
「研究タスクのひとつを終えたあとのような気分だね。不明だった領域が、ひとつ片付いた。そういう感じさ」
ニコは思わず、先輩の顔で返していた。
「分かり合える人が少ない人生を歩まされた。そう判明した状況でさえ、そこまで悪い感情はない。あるいはこれが、洗脳の結果かもしれんがね」
「ゆるせなく、ならないんすか」
ニコはただ、いつも通りに笑った。「アハハ」と笑っていた。
「愛などというクソみたいな理由で国家を崩壊させたことの方がよっぽど許せんね。だがまぁ、あの件でも許しはしないさ、憎しみがなくたってね」
つかつかと歩を早める。「ただ、やるべきことは変わらんだろう」と歩む足はむしろ、来る時よりも力強かった。
「なにより謎を、わたしが理解りたがっているのだよ、カイ君。あの寄生虫を解明するぞ」




