心の手当て
手当て、という言葉がある。
病気やケガの処置をするという意味の言葉で、本当に手を当てる事ではない。
手を当ててみただけで病気が治るだなんて、そんな事が起こるはずはないんだから。
それでも、おばあちゃんはいつも言っていた。
心がどうしてもしんどくなった時は、そっと胸に手を当ててみるといいんだよ、と。
そうすると、自分の手の温かさがじんわりと心に伝わるから、少しだけでも楽になるんだよ、と。
おばあちゃんは、つらい時はいつもそうしていたのだと話してくれた。
ぼくにはそれがよく分からなかった。
そもそも心というものが、胸にあるというのもおかしいと思った。
胸にあるのは、血液を送り出す心臓だけで、何かを感じたり考えたりするのは、頭の中に入っている脳の仕事じゃないか。
だったら心というものがもし本当にあるとしても、それは脳に宿っていると考えるのが自然なんじゃないのか。
そんな風に考えた。
その事をおばあちゃんに聞いたら、もっと不思議な事を聞かされた。
心とは、自分であって自分でないものだと。
心臓や脳は、確かに自分の体の一部で、血液を送ったり、何かを感じたり考えたりといったそれぞれの仕事がある。
心は、それとは別にあるもので、この世に生まれた時に自分の体の中に入っていって、死ぬ時にはまたどこかに行ってしまうようなものだと、おばあちゃんは言っていた。
だから、脳が何かを考えたり感じたりするのと、心がうきうきしたりしんどくなったりするのは、少し違うんだよ、と。
それを聞かされたぼくは、おばあちゃんの言っている心とはいわゆる魂の事なのか、とたずねてみた。
おばあちゃんは、そうだとも違うとも言わず、そっと微笑んだだけだった。
ぼくはそっと、自分の胸に手を当ててみた。
確かにおばあちゃんの言う通り、自分の手のひらの熱が伝わってくるような感じがした。
それを見たおばあちゃんは、ぼくにこう話してくれた。
自分の体はいつか無くなってしまうけれど、心は消えてしまう事は無い。
人間は、体が死ぬまで自分の心とお別れすることは出来ない。
だから、心の機嫌をとりながら生きていかなければいけないんだよ、と。
みんなそれぞれ、いろんな体を持って生まれてくる。
それぞれの体の出来が違うから、力も、頭の働きの度合いも違うし、出来る事の限界も出てくる。
だれだって、望む事が思うようにできない事がある。
周りの環境に左右されてしまう事も多い。
そんな時、人間の体は、脳は、いろんな事を考える。
他の人間と比べたり、自分はダメな人間なんだと考えたり、自暴自棄になったり。
なにせ脳は、放っておくとどんどん良くない事を考えてしまうからね。
そんな風にしていると、どんどん心がしんどくなってしまうのさ。
だから、大切なのは、心をいたわること、心を手当てすることなんだよ。
どんなにお金があっても、社会的な地位や人々の称賛を得ても、その人が自分の心をいたわってあげられなければ、自分の心に対して「あなたの事が大事なんだよ」と言ってあげられなければ、その人は弱いままだ。
逆に、それが出来る人は、どんな逆境にあっても強い人だと思うよ。
だから、自分なんてと言って心を傷つけるような事をしてはいけないよ。
自分の中にある、自分とは別物の「心」を大切にしてあげるようにね。
そう言って、おばあちゃんはぼくの頭をなでてくれた。
そんなおばあちゃんが亡くなって、もう十年は過ぎようとしている。
おばあちゃんは、最期は病院のベットで寝たきりになり、意識を取り戻すことなく他界してしまった。
その時のぼくはまだ小学生だったので、おばあちゃんのそんな様子を見るのは、結構つらかった。
おばあちゃんが亡くなる一週間前に面会に言った時、ぼくはおばあちゃんの胸にそっと手を当ててみた。
心が宿っているはずの場所だ。
その時、わずかにおばあちゃんが笑ったような気がした。
話しかけても触っても、何の反応も見せなかったおばあちゃんが、だ。
父さんと母さんは見ていなかったらしくて、もしかしたらぼくの勘違いだったのかもしれないけれど。
もしかしたら、あれはおばあちゃんの「心」をぼくの手で温める事が出来たからなのかもしれないと、今でも思う事がある。
ぼくももう青年と言われるくらいになっているけれど、あのおばあちゃんの言葉はずっと覚えておこうと考えている。
ずいぶんと非科学的な考え方ではあるけれど、自分の中にある「心」をいたわっていくというのも、ひとつの人生のあり方だと思うからだ。
ぼくに出来る事がある一方で、とてもぼくには出来ない事もたくさんある。
そんな時でも、ぼくなんてと考えないようにする。
ぼくはなんて不幸なんだと思わないようにする。
どうしてもつらい時は、そっと心のある場所に手を当ててみる。
そんな、一見ばかばかしい事を、やってみようと考えている。
つらい人生を送ってきたおばあちゃんの知恵を、少しでも役立てる事が出来れば、きっとおばあちゃんも喜んでくれるはずだから。