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転生したらメロンパンだった件

作者: うめ

私は、目が覚めるとメロンパンになっていた。

いわゆる異世界転生だろう。

生前は、なにをやっていたのかまず思い出せない。

これは転生したてにある事なのか、もう思い出せないものなのか、いずれは思い出すのか、今はまだわからない。


転生するタイミングがいつなのか知る由もないが、すぐそばの窓には海のみえるベーカリーと書いてあることと夕焼けが見える。

私は焼かれたてなのか、いま目が覚めて、おそらくあたたかい。

感覚も感情もない。私は現象の一つとなったようだ。メロンパンという名の現象。

カロリーにしておよそ400キロカロリー。外はサクサク、中はふんわり甘いスタンダードなメロンパンだ。

緑の何かを塗られたラグビーボール型のマドレーヌもどきやメロン成分を練りこんだブールもどきではない。正真正銘のメロンパンである。


たしかに、メロンパンについては人並みならぬ愛着がある。生前は好物だった。

ややこしい人間関係を整理する仕事をしては心をすり減らし、甘味で癒しを補っていた感覚はある。記憶の像に焦点は合わないけれども感覚としては確かなものだ。


こうやって落ち着いて海を眺めるのはいつ以来だろうか。

海鳥が声を上げていて、人影も見える。


ゆっくりと動く波や空を眺めていると色々思い出す。正確には思い出しているのではなく、感覚をなぞっている。

かつて人の形をしていたであろう記憶の底を、指らしきものでなぞっているだけなのだ。たしか、仕事は営業渉外だったろうか、何者かと会議ばかりをしていたような。

なにをしたかという実感的な記憶はいくつか見つかるけれども、「何を」という事と「どうなった」がまったく出てこない。人も、場所も。



会議というか、対応だったろうか。役人らしきしっかりした様相の人間に囲まれては派手なもめ事ばかりしていた気がする。

なにを押し通そうと、追い返そうと、していたのだろうか。事情をお互いに話し合い、納得のいく方法を探せなかったものか。

後悔ではないが、自分の記憶としてもったいない時間をすごしたという感触と、懐かしい感覚が入り混じる。



ただ一塊のメロンパンとして約一時間から数日の命をいかに過ごすものなのか、わからないままであるのか、また意思をもったところで行動に示せぬ我の意義とはなんなのか。

食べられること、と言われればそれまでではある。産まれた理由自体それそのものが食べられることのみにある、ただそれだけのために長い行程を経てメロンパンに仕上がり、最後の時間を過ごしているのだ。




思い返せば人間としての人生も、そう変わらないものだった。そんな気がする。私が食べていたものがメロンパンだったのか、私はメロンパンだったのだろうか。もはやその区別すらつかない。

人生の意味とは、なんて都度考えては都度変わっていた。愛だったりお金だったり、誰かの幸福だったり、それが帰ってくるであろう事だったり。

人生とは、結局人生だったのだろう。そのものに名前があるのだからそれなのは当たり前だ。言い換える必要などない。なぜ言い換えに必死になっていたのだろう。


言葉を紡いだ例としていくつかは時代を超えて長く同じ形を保っているものがある。その中の一つに「人生とは、名前をつけていくことだ」というものがあった。

人生とは、喜びだという、人生という名前の何かに自分からあたらしい名前を一つ付けた時期もあった。たしかにそうだ。

人の数だけ、もしかしたら生命の数だけ人生というものがあるのかもしれない。現にこの私が人生を考えていたとしたらメロンパンにも人生があるのだろう。

その広大で多岐に渡る広すぎる単語「人生」という巨大なリソースから、自分の分だけ、必要時に必要最低限に切り出したものが「喜び」だったのだろう。

大きな語彙から自分やタイミング、その時の相手に一番適した大きさの言葉を切り出す作業、そこに分け出す共有の感覚と時間の名前が、その言葉だったのだろう。



主語が大きい、そう噛みついていた気がする。人間だった私は対人関係に疲弊していたのだろう。料理でいうなら原材料の時点で食べれる状態にしろ言っていたようなものだ。

若くはなかった。経験もあり手段も知っていて使う理論も持ち合わせていた。なのに自分に適していないと待ちきれずグズっていたのだ。

相手「人類とは、愚かなものだ」

私「主語がでかすぎ、あなた個人の中にだけある小さな例の一つだけでしかないものを、そう言う必要があるのか?」

正論だっただろう。正論だとおもっていた。言葉の形としては当然であり、正すべきを正した真っ当な指摘だ。相手はそんなこともわからなかったのだろう、そう思っていた。

相手だって人間のすべてがそうだと、種を指して言っている訳ではない事くらい、今ならわかる。不特定多数の自分という設定あるいは第三者と接する可能性がある人型のそれらおおよそ全体的には、という言葉が「人類」だっただけだ。

言葉とは何だったのだろうか。相手の思考や認識、記憶や情報を共有するものではなかったのだろうか。

共有されている前提があり、その前提を自分は踏襲しているので、使い方を誤っている相手は正論で殴ってよい。矯正してあげてよい。そういうものだったのだろうか。

相手の境遇を、接するタイミングごとに高確率で問題が起きているその境遇、それがまさに私の眼前に1例としてあることだったのに、私は定義された正しい表現というでかい主語で殴りつけていたのだ。

初手から理解をしないとこちらが啖呵を切っておいて、たしかに穏便には進まないきがする。いまそれに気が付いた私を、あのときの私に食べてもらいたい。




主語が大きいといっては細事に落とし込み実際の話だの例だのと言っては、センシティブな話をしていた。過激な言動だが正論でためになる、そういう感覚だった。自他ともにそれが許されていた恵まれた環境だった。

人としては大変幸せだったし満足で充実していた。ストレスもたしかに何かしらで大きかった感覚ではあるが、発言力、発想力、発信力、それらが備わっていてそのエネルギーを伝えていくのにはロスもあるしストレスもある。

多くの価値を抱え込んでいたせいで、摩擦も大きくなっていたのだろう。

たしかに多くの本を読んだ。勉強に多くの時間を費やし暗記した。どんな状況にも先人の正論を引き出し対応できた。

言ってもわからない者には本を読めと言えた。読んでいないからその程度なことはわかるし読めばわかるだろう。

知識を手足のように使い、人の心をそこにある地図のように眺めて駒をすすめる、そういう仕事と性格と人生だった。メロンパンとしてはこのでこぼこにのったザラメのような感覚だ。


本を読んで知識をためてそれをそのまま暗記して使える、そんな事になにか意味があったのだろうか。

たとえば、その言葉を背表紙にして本として意味を内包し書架にあれば、それを唱えることやそこにあることを言う事はなんの意味があるのだろうか。

本という知識はそれを重ねて高みにあるなにかしらに手が届くように使う脚立のようなものだったのだろうか。

知識を自分の中に取り込むということは、図書館の蔵書検索になることではない。得た知識で見て手を使い足で動き、なにかを作り上げるためにする行為が知識を取り込むということだ。

なぜ本そのもので物理的に相手に投げつける行為しかしてこなかったのだろう。この手で作ったものの数をいまさらもう数える事などできないが、いくつもあったとは思えない。

本を足場に高みに手が届いたつもりでいたりしていた。

いまなら言える、本を読めという言葉は「指先が本に書いてある知識を求めているはず」、そんな言葉を。しがないメロンパンにはただ祈る事しかできないけれども。




何も得るものはなく、何も欲することなく、なんの目的もなくただ意義だけが存在するメロンパンに転生することで自分の至らなさに気が付いたのだろうか。それともその逆なのか。

私はたしかに存在する。存在する故に考える。考える事自体には意義や意味などない。私の存在が、この世にありこの世は私を存在させている。その関係性だけしかない。

メロンパンがメロンパンとしての存在から、誰かの人生の意義のわずかな一部になるためにここに存在するし、この存在はわずか一部でしかない。

しかしそれがこんなにも積み重ね考えていることに気が付くのだろうか。おそらく多層に重ねられた甘味とうまみは全く異なる伝達をするだろう。

無常とはそういうものか。どこからでも何からでもすべてを手にいれることができるが、だれもそれに気が付かない。

連続性を欠いた瞬間、存在は消え失せる。みな繋ぎとめるために必死、まさに必死なのだ。連続を欠いて失うことは消滅であり死なのだから。

私も生きる事に必死だった。分け隔てなく気持ちのままを伝えて言葉にしてきた。説明して繋ぎとめてきた。それこそが価値だと思っていた。

人であったなら気が付きはしなかっただろう。こんなメロンパンとしての余裕と時間の使い道がなければ考える事もなかった。


いまメロンパンとしていえる事は、言葉にして繋ぎとめない、消えゆくままにさせることも「在る側」としての意義なのだろうと。

センシティブな言葉、過激な言葉、刺激的な言葉、それを口にしたり耳にしたり、またそれを扱う態度のありようで自分との関係性を示し、繋がることで威を示し悦に入っていた。

否定形とつなげる事で万能の武器になった。自分もつらい立場なのだが、あなたに突きつけざるを得ない、なんてどこからの依頼か支持かわからないようにして、突きつけることができた。

目的や原因が何にせよ自分の口から出た言葉はそれを否定にしようと肯定にしようと、自分の言葉でしかない。

誰かが言っていた、誰かの名言、誰かの状況やなにかの表現、それを知っているだけだから言っただけ、その影響を受けるのは相手が真実や過去や現実といった何かと衝突するだけ、そう思っていた。

相手にぶつかったのは私自身であり、借りてきた言葉やその主ではない。私が相手にぶつかっただけのことなのだ。名言を吐く私、正論を唱える私、言うべきタイミングでも内容でもないことを言う私、私。

虎の威を借りる狐でもよい。かしこい狐だ。私の問題はそれを安全な場所を作るために使ったのではなかった。虎で人を殴り傷つけ教育と称し私の座り心地の良い場所を開けさせるために使っていたのだ。

責任は虎にあるので、それを利用しただけ、そんなわけはない。私が辛口カレーパンに転生しなかった理由はこれだろう。せめて口にあまいメロンパンならば本望だ。



私が私であるということ、それ即ちメロンパンであること、それは齧りついた一口目で広がる幸福感、そのために私は転生してきて、いま生きてその意義を高めている。

ほんのすこし温度が下がってきたと感じる。冷えて硬い歯ごたえもよい。甘味も感じやすくなるだろう。もちろん温めなおしてもよい。正論なんてない。正攻法もない。

私はいつでもどこでもメロンパンとしてその意義を全うする心づもりも出てきた。いままでの人生はメロンパンにすら足らなかったのだろう。



窓の外をみると、夕焼けだとおもっていた赤い陽はどうやら朝焼けだったようだ。

私のこの世界での冒険譚は、まだ始まったばかりなのだ。

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