3・イーリスちゃん登場
ネコの置物は具合の良い包みがなかったので小脇に抱える事にして、下宿のある街外れへと向かう。ここまで歩いて来ると、高く聳える城壁が間近に見えてくる。
リエッダは城塞都市として建設されただけあって、城壁の近くになるほど道が迷路のように入り組んでいる。
これは大軍が容易に侵入出来ないようにする戦略上の工夫だが、生活している人間の身としては不便極まりない。
大通りから分かれた道は段々と細くなり、両手を広げれば両手が壁に付いてしまうくらいの狭い路地には、散乱するゴミや落書きが目に付いてくる。
善良な市民からは『城壁沿い』と呼ばれて敬遠されてるこの地域は、王宮や魔導院などの重要な施設が集中した治安の良い中央区画から離れ、軍警の目が行き届かないせいもあり、あまり品が良いとはいえない飲み屋や、いかがわしさ満点の風俗店が行く道道に点在している。
これはまだ北方リエッダが統一王国になる前の戦乱の時代に『城壁沿い』辺りに軍部の慰安所が多かった名残らしい。
そんな胡散臭さが漂う裏町だけど、まだ太陽が路地を照らしている間くらいは静かに眠りに付いている。
今は子供の笑い声や母親たちのお喋り、行商の吹く甲高い客寄せラッパが町の主役だ。
僕はこの、人によっては雑音としか感じられないような生活の音が好きだ。きっと、常に上品に、静かに振る舞うよう強要される環境で育った反動なのだろう。
広い屋敷の中で咳払いすら我慢しなくてはならないような毎日を過ごしながら、本当の僕は廊下に並んでいる彫像の一体なのではないだろうか? なんて一人勝手な妄想に怯えていた。
だからこそ、いまこうして街の喧騒に包まれながら鼻歌混じりに路地を歩いていると、こんな僕でも街の一員になったんだ、なんて嬉しく思えて……って、これは道に迷ったみたいだぞ。
どうしたことか『城壁沿い』に住んでしばらく経つというのに、ちょっとでも気を抜くと直ぐに道を間違えてしまう。
もともと方向感覚はそんなに悪い方では無いはずなんだけど、どこまでいっても代り映えのしない石造りの景観がいけないのか、それとも日中にこの辺りを歩いた経験が少ないから迷ってしまったのだろうか?
こんな僕は、まだまだ街の一員にはなりきれてはいないようだ。
「参ったな……」
右を見ても左を見ても、目に入るのは似たような民家の壁だ。
思い直して引き返してみたら、いよいよ自分が西を向いているのか東に向かっているのかもすらも分からなくなってきた。
仕方ない、こうなったら人に道を聞くのが早いか。
都合の良い事に乳母車を押す若い母親がこちらに向かって歩いてくる。さて、なんと説明すれば通じるだろう?
下宿先は元々は宿屋だったそうだから、建物の特徴を説明すれば伝わるだろうか?
とも思ったが、この辺にある宿屋といったら、どこを見渡しても怪しげな看板を掲げた連れ込み宿ばかりである。そんなん子連れとはいえ若い女性に尋ねて良いものだろうか。
そうだな。ここはまず、挨拶代わりに子供を褒めるとこから始めようか。
「へへへ、可愛らしいお子さんですね。ぼく、小さい子が大好きなんですよ」
……ダメだ。これは限りなく変質者の物言いだ。もうちょっとマシな切り出し方があるだろう?
何て声を掛けるのが正解なのか迷っていると、どうした事か、乳母車の若奥さんは訝し気な顔をして、こっちをチラチラと眺めてきた。
ちょっと待て。僕はまだ何もしていないぞ!? 不穏な気配にたじろぎながら女性の視線を辿ってみると、小脇に抱えていたネコの置物と目が合った。
――――昼間っから珍妙な置物を抱えて路地裏をウロウロしている挙動不審な若い男。
もし近所でそんなヤツを見かけたとしたら、僕は間違いなくイーリスに注意を促すだろう。
何事も無いような冷静を装いながら、女性の視界から逃れるようにして適当な路地に滑り込む。
すると、曲がった先では小柄な少女が背伸びをして窓ガラスを拭いていた。長い黒髪を二つ結びにしたその後ろ姿はイーリスに違いない。
助かった。気分はもう、イシュラッド砂漠でオアシスを見つけた遭難者だ。まあ、イシュラッドには行ったこともないけど。
「あれ? ロディさん?」
安堵の余りに思わず立ち尽くしていると、僕の存在に気が付いたイーリスが、掃除の手を休めて駆け寄ってきた。
ああ、眩しい。まるで彼女の頭上にだけ陽光が降り注いでいるかのようだ。
「今日はもうお仕事おしまいなの?」
すみれ色した澄んだ瞳が、不思議そうに僕を見上げている。
イーリスは東方人の血を引いているだけあって、整ってはいるが造作が控えめな顔立ちをしている。
それだけにアンバランスにすら見える大きな瞳が、彼女をお人形さんのように見せる一役を買っている。
「お父さんと出掛ける用事があったから、早引けしてきたんだよ。ところでイーリスちゃんこそ学校は?」
「やだなあ、いま春休みだよ。忘れちゃったの?」
口に手を当ててクスクス笑う姿の何と愛らしいことか。
ところが彼女は何かを思い出したように笑うのを止め、眉を寄せて僕の顔を見返してきた。
「いま、わたしのことをイーリスちゃん、って呼んだでしょう? もう子供じゃないんだから、名前に”ちゃん”を付けるの、止めるって約束したよね」
「ああ、そうだったね。でもさ、だったら僕の事も”さん”付けじゃなくて,ロディって呼んで良いよ、って話にもなったじゃないか」
「でも、年上の人を呼び捨てにしちゃいけないって、お父さんが言ってたから……」
困ったように下を向いていたイーリスが、頬を赤らめながら顔を上げた。
「あのね、だったらね、これからはロディさんを”お兄ちゃん”って呼んでも良い?」
「おっ? おにいちゃん?」
「あ……ごめんなさい」
窓を拭いてた雑巾を手に、もじもじするイーリス。
いったい何を謝るんだい? 君の存在に間違っている部分なんて只の一つもありやしない。
カワイイは唯一無二の絶対正義だって、僕は魔導院で教わったんだよ。
「ロディさんは、イーリスのお兄ちゃんじゃないから……やっぱりダメだよね」
「いや、今日から僕はイーリスのお兄ちゃんになるよ。さあ、遠慮なく呼んでくれたまえ」
「じゃあ……」
イーリスは「お兄ちゃん」と、はにかんだ笑顔を浮かべて、おずおずと僕の義腕に手を伸ばしてきた。
何故か彼女の触れた所が、ほわっと暖かくなったような気がする。鉄の腕は暖かさも冷たさも、痛みですらも感じないはずなのに。
「お兄ちゃん、それなあに?」
イーリスの声でハッと我に返る。ああ、そうか。彼女が手を伸ばしてきたのは、僕が脇に抱えた幸運を招くネコの置物だったのか。
土産物屋の店主から聞いた話をそのまま伝えると、イーリスは「変なの~でも、おもしろ~い!」と、マネキネコなる珍妙な置物を喜んで受け取ってくれた。
僕の心配は取り越し苦労だったみたいだ。彼女は僕が思っているよりも、ずっと健やかな心の持ち主なのだろう。
「それで、お兄ちゃんは、お父さんと何処かに出掛けるの?」
「そうだった。お父さんはどうしてる?」
イーリスに言われて、肝心の早引けした理由を思い出した。
だが、イーリスの返事に僕は思わずのけ反った。
「お父さん、まだ寝てるよ」
マジか、あのオッサン!?
「寝てるって……もうすぐ夕方だよ?」
「うん。昨日の夜、お父さんはヴィヴィさんと二人で遅くまでお酒飲んでいたから」
「ったく、あのオッサンは……」
悪態が口を突いて出掛かったところで、イーリスがペコリと頭を下げた。
「ごめんなさい。わたし、起こしてくるから」
「ああ、いや、イーリスが謝るようなことじゃないし!」
慌てて駆けだしたイーリスの背中に声を掛ける。
やれやれ、どうしてあんなにしっかりした娘さんの父親が、あんなにぐうたらしたダメ親父なのだろう。




