1・僕の名は鍋つかみ
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いやあ、無理も言ってはみるものだね。
新人のくせして早引きさせてくれ、なんて言ったら怒られるんじゃないかと覚悟していたんだけど、フィールドワークを理由にしたら、こんなにもあっさり通るとは。
部署の名前の仰々しさに若干引いていたんだけど、ここって意外にユルい職場なのかも知れない。
いそいそと白衣を脱いで帰り仕度をしていると「おや? ロディ君。もう上がりかい?」と、通りがかりの作業服姿の同僚から声を掛けられた。
「ええ、ちょっとヤボ用がありまして」
どうとでも取れる便利な言葉でもって適当に返事しつつ、『ロディ・セリア』と僕のフルネームが刻まれたネームプレートを指差し確認。大丈夫、間違いない。
ロッカーの鍵を回しながら頭もフル回転させる。ええと、この同僚の名前は確か……ダメだ、思い出せない。
学院を卒業した直後に配属された研究室は、優に100人を超える職員を抱える大所帯だったもんで、とてもじゃないけど短期間では全員の名前は覚えられない。
竜種系統樹だったら、いますぐにでも諳んじられるのに、どうやら僕の頭は人名を覚えるのには適していないらしい。
「と、いう訳で、今日はお先に上がらせて頂きます」
こういう時はゴマかすに限るよね。
あちら様は僕の名を呼んでくれたのに、声を掛けてくれた相手の名前を思い出せないなんて……地味ながらもヘヴィな気まずさだ。
そんな僕の居たたまれない気持ちを読んで……くれなさそうだね。
同僚は意味深な笑みを浮かべつつ、僕の顔を覗き込んできた。
「ロディ君のヤボ用ってさ、あれだろ?」
「あれ? あれ、ってなんですか?」
「しらばっくれてもダメだよ。デートだろ? おデート」
おデート? いまどき、デートに”お”を付けるか?
しかも、この僕がデートだって? 言葉の意味を反芻してみたが、どうも上手く咀嚼が出来ない。
だいたいデートをするにはデートしてくれる相手が必要で、僕は彼女いない歴18年で、今だに途切れぬ記録を更新中で。
「デートしたくっても、僕には肝心の相手が居ないですよ」
「おや? この間、研究室に来てた、あのカワイコちゃんは?」
「カワイコちゃん?」
「またまた、しらばっくれちゃって。ほら、この間、ロディ君に会いに来てた……」
カワイコちゃん? ああ、『カワイコちゃん』とは可愛い女の子の略意か。
言葉廻しのセンスに年齢の差を感じるが、可愛い子でピンと来た。カワイコちゃんとは、僕が部屋を借りている大家さんの一人娘のことだな。
確かに彼女、『イーリスちゃん』は、まるでお人形さんのように可愛らしい女の子だが、あの子を恋愛対象にでもした日には、僕は速攻で軍警察に連行されるハメになるであろう。
僕は”一歩間違えたら大変な事になりかねない誤解”を解く為にも、イーリスは僕に会いに来てくれたのではなくて、研究室と同じ敷地内にある教会にお祈りに来たのだと説明した。
「だから、彼女はお祈り来たついでに、ここまで挨拶に寄ってくれただけなんです」
「ああ、そうなの? でも、あの感じはロディ君に気があるように見えたんだけどなぁ」
「彼女は人懐っこいから誰にでもあんな感じですよ。だいたい、あの子はこないだ小学校を卒業したばかりですよ」
「ロディ君は、いま何歳?」
何でいきなり僕の年齢の話?
「僕ですか? 18歳ですけど」
現在進行的に彼女居ない歴18年ですけど。
「小学校を卒業するのって、何歳くらい?」
「そうですね、ええと12歳くらいになるんじゃないですか?」
「じゃあ、せいぜい6歳差じゃないか。そんなの誤差みたいなもんだ。大丈夫だ問題無い」
「大丈夫じゃないし大問題ですって。10代の6歳差は誤差なんかじゃ済みませんよ」
28歳と22歳だったらいざ知らず。
18歳と12歳っていうだけで、もの凄く危険な感じがするのが不思議だよね。
僕は苦笑いで返してコートの袖に手を通したが、途中で義手に突っかかってしまった。初任給で新調したコートのサイズ感が、まだ上手く掴めていない。
「それじゃあさ、デートじゃないなら、帰る前にちょっとだけ手伝ってくれない?」
「いや、用があるのは嘘じゃないんですよ」
「ごめんごめん、直ぐに終わるからさ」
「それは内容にもよりますね。手伝いって何ですか?」
「いま、カッパードラゴンから採れた鱗の耐熱実験をしていてね」
「耐熱実験、って事は"鍋つかみ"をやれと」
頼むよ、なんて拝まれてしまっては断わり難い。
僕はコートを脱いでハンガーに掛け直した。
"鍋つかみ"とは、錬金釜でチンチンに熱した試料を取り出す作業だ。
本来なら耐熱加工の施された持ち手の長いトングでもって慎重に行わなくてはならない作業だが、僕にとっては”掴んで・出して・終わり”のスリーステップ。実に簡単なお仕事だ。
鉄すら溶けだすほどの超高温の窯の中から研究試料を取り出すのは、一歩間違えば大火傷を負いかねない。しかも、限界まで熱せられた試料は脆く崩れやすくなっている事も多々ある。
さながら溶岩地帯での綱渡りみたいな神経を擦り減らす難行が、僕の鋼鉄製の左腕ならば、ものの数分で片が付く。
熱々のオーブンからグラタン皿を取り出すかのように錬金窯に義手を突っ込む僕を見て、誰が最初に言い出したのか、『鍋つかみ』と。
おかげで配属されて一か月も経たない間に、僕は研究所の人気者……もしくは人気の実験器具となった。
「まあ、僕も竜鱗の耐熱実験には興味がありますし。ちゃっちゃと片付けちゃいましょう」
結局、早引けしたばかりだというのに、僕は再び研究室の扉に手を伸ばした。
年季の入った重厚な木製の扉は、見た目を裏切らない重さを誇る。
肩を入れて扉を押し開けていると、仰々しいフォントが刻まれた金属製のプレートが嫌でも目に入った。
『***対竜種装備技術開発総合研究室***』
職場の名称がこんなに長ったらしいから、僕は同僚の名前が覚えられないんだと思う。