第九話 8
その後、書店の中で立ち読みしようと思っていたのに、気付けば閉店時間になっていて、戸田翔子や出口美紗がアルバイトを終えて、店の中から出てきた。戸田翔子は僕を見つけると、ぱっと顔が輝き、「あら、篠原さん、良かったら下宿まで一緒に帰りましょうよ」と言った。僕は中村誠の目が気になり、後ろを振り返ったが、彼はマンションの男を尾行しに行ったのか、もうすでに姿は見えなくなっていた。
「篠原さん、もう夕ご飯、食べた?」
「あっ!」
「え、なに?」
「食べるのを忘れてた!」
僕がそう言うと、戸田翔子はゲラゲラ笑った。
「じゃあ、今からファミレスに行かないかなー?」
「え? 戸田さんと僕が一緒にってこと?」
「うん」
「一緒に行ってもいいの?」
「いいから誘ってるんだけど」
「ああそうか」
相変わらずとんちんかんな会話をしながら、僕と戸田翔子はファミレスに向かった。戸田翔子は、ファミレスのメニューとにらめっこしながら、「この、お箸で食べる和風スパゲッティが気になるからこれにしよう」と言った。僕は、店員お薦めの定食を頼んだ。
「ななえさんて、良い人だね」
「え?」
「今日ね、バイトに出る前に、『何時に帰ってくるのかい?』と聞かれたから、『夜の十時』と答えたの。そしたら、『マロの散歩とご飯をやっといてやるから、あんたは気にしないでゆっくり帰っといで』だって。『マロはここで放し飼いすればいいよ』とも言ってくれてた。幸い、緑姉さんも真紀ちゃんも犬は好きみたいだし、大家さんも良い人だし、希望荘に引越して来て本当に良かったなと思ってるの」
「そうか、良かったね」
「これも全部篠原さんのおかげだね」
「え?」
「だって、篠原さんが母の本を見つけてくれたから、私が希望荘に来られることになったんだもの」
「そっか」
「うん。ちょっとびっくりはしたけど。私、自分が養女だったってことを、あのとき初めて知ったから。だって、今まで自分の戸籍なんて見ることが無かったんだもの。父も心不全で突然亡くなったから、事情を聞かされてなかったの。でもね、子供だったらショックだったろうけど、今となっては両親には感謝の気持ちしかない。だって、私は愛されて育てられたんだなと思うから」
「お母さん、優しい人だったんだろうね」
「うん。優しい人だったよ。優しくて可愛くて、お姉ちゃんみたいなお母さんだった。母はいつも私のお絵描きに付き合ってくれてたし、お揃いの服を自分で作って着せてくれてた。本当に可愛くて愛すべき人だった」
「そうなんだね」
「篠原さんは? 篠原さんのご家族はどんな感じ?」
「僕の両親もね、優しかったよ。結構自由にさせてくれてたと思う。でもね、実は僕も十歳の時に交通事故で両親を亡くしてるんだよ」
「えっ? 二人とも同時に?」
「うん。その後、弟も祖父母も亡くしたから、今は、戸田さんと同じで天涯孤独の身」
「そうなんだ……。なんだか、私たちって似てるんだね」
「そうだね」
「似てるといえば、篠原さん! あの童話の続きはどうなったの? 私も最後がどうなったのかずっと気になってたの、ちゃんと約束の場所にお姫様は現れたのかなぁって。それに、早く最後まで書いてくれないと、私がいつまで経ってもイラストが描けないんだもの」
「え? もしかして、もしかする?」
「うん、もしかして、もしかする」
「本当に? 戸田さん、イラストを描いてくれるの?」
「うん、是非是非そうさせて貰います! というか、こっちがお願いしなきゃいけないんだけど。佐藤みつる☓村口勉みたいなペアになれたらいいなぁと思うもの」
「ええっ!? ほんとにっ!?」
「うん! ほんと! でもね、この間、河原で子供たちと一緒に、途中まで話して聞かせてくれたから、もう描き始めてはいるの」
僕はその言葉を聞いて「なんだか嬉しいなぁ」と呟くと戸田翔子は満面の笑みになった。
「それとね、篠原さん、田中さんが言ってた『大切なもの』ってもう見つかった? 私も田中さんに同じことを言われてるんだけど、それが何なのか分かってないの。大切なものって、母が残してくれた絵本のことだとてっきり思ってたのに違うらしいの。田中さんは『選択を間違ってはならぬ』と言ってた。でも、私はそれが何なのか見当もつかなくて、探すのは難しいと言ったら、田中さんは『難しいことがあろうものか! 自分の気持ちに正直になればよいだけじゃ』と言ってたんだけど」
「戸田さんも彼にそんなことを言われてたんだね。僕も分かってないよ、未だにそれが何なのか……。僕が大切だと思っていたものは、もう二度と戻っては来ない」
戸田翔子は、僕がそう言ったとき、僕が戸田翔子に沢野絵美の面影を見て涙していたことを思い出したのか、神妙な面持ちになった。
「篠原さんの亡くなった知人の方って、きっと素敵な方だったんでしょうね。篠原さんにとって、その方が一番大切な存在だったんでしょ?」
僕は戸田翔子にそう言われて、何も言えずに俯いた。
「私の好きだった人もね、篠原さんの好きだった人と同じで、素敵な人だったよ。いつも周りの人に優しくて、私もあんな風になりたいって思える人だった。今、彼、どこでどうしてるんだろう? ばったり逢えたりしないかな」
「きっと逢えるよ」
「え?」
「逢えるに決まってる。そんな気がするんだ」
僕がそう言うと、戸田翔子は微笑んだ。
ファミレスを出て、希望荘に向かっていたら、戸田翔子が唐突に言った。
「篠原さん、空を見て。満月だよ」
「ほんとだ!」
「あ、でも、正確には明日が満月だって。今日は満月一日前」
戸田翔子はスマホの月齢カレンダーを見ながら言った。
「満月の日に何かが起こりそうと思うのは、気のせい?」
「さぁ……。気のせいじゃないかもしれないね」
そんな会話をしながら、月が光輝く通りを二人で歩いていた。




