第八話 9
その日の夜、僕は台所で一人でコーヒーを飲みながら、昨日聞いた十号室に纏わる悲しい話を思い出し、亡くなった僕の恋人、沢野絵美に思いを馳せていた。僕は、心の中で彼女に問いかけていた、「今の僕は君が望んでいた僕でいられているかい?」と。多分、彼女が生きていたら、笑いながらこう答えるだろう、「いいえ、まだまだよ、正義さんは夢を叶えなくちゃだめ」。沢野絵美がいたからこそ、僕は自分を変えることが出来たし、いつかきっと夢を叶えたいと思っていた。沢野絵美がもし目の前にいるなら、僕はこう答えるだろう、「僕にしてみれば上出来だよ、君がいない世界で夢に向けて頑張っているんだから」。
そんなことを考えながら、一人でしんみりしていたら、二階から秋川緑と住井真紀が一緒に降りてきて、台所に入って来た。秋川緑は僕の顔を見るなり、「篠原さんて、真紀ちゃんの高校の時の担任の先生だったんだってね! 今、真紀ちゃんから聞いて、びっくりしてたの」と言った。
「そうなんですよ。僕もびっくりしました」
「ねぇ、真紀ちゃん、篠原君て、どんな先生だったの?」
「ちょっと、止めてくださいよ。僕がいないときに話してくださいよ」
「いいじゃないの」
「そうですよ。篠原先生はとってもいい先生だったんだから」
「え……そうなの?」
「そうですよ。大学受験前の三者面談の時だったんですけどね、先生、覚えてますか? 私は両親が勧めるお嬢様大学を受けたくなかったんですけど、母が先生にそのことを言ったら、先生は凄く真面目な顔をして、『お母様やお父様の人生ではなく、彼女自身の人生です。どうか自分の人生は自分で選ばせてあげてください。どんな選択をしても苦難はついて来ます。でも、自分で選択するからこそ、苦難を乗り越えられるのだと思うし、喜びもあるのだと僕は思います』って、毅然として言ってくれたんです。その言葉で母も納得してくれて、建築学科を受験できたんです。もうほんとにカッコ良かったですよ!」
「そうなんだ~。良い先生じゃん」
「そうなんですよ。それに生徒からも人気があったし」
「う、うそ……」
「嘘じゃないですよ。篠原は頼りになるってみんな言ってましたよ。あ、呼び捨て、すみません……」
僕は住井真紀からその言葉を聞いて、泣きたくなった。
「ふーん。やっぱり、良い先生だったんだね」
「で、でも、今やこんな成れの果てだし……」
「そうかもしれないけど、翔子ちゃんから聞いたのよ。篠原君、今、童話を書いてるんでしょ? 夢に向かって頑張ってるじゃないの!」
「え、ええ、ま、まぁ……」
「今だって、素敵な人だよね、真紀ちゃん」
「はい、そう思います!」
「だからね、篠原君、思い切って告白したらいいと思うよ」
「えっ? 何を?」
「田中さんが言ってたのよ、私があなたの背中を押せって。それにね、中村君のことはもう気にしないでいいと思う。彼は真っ向勝負して潔く諦めたんだから」
「え……」
「何の話をしてるんですか?」
住井真紀が不思議そうに僕と秋川緑の顔を見比べながら言った。秋川緑は、「大人の話だから内緒。ごめんね」と言って笑った。




