第八話 7
そんな会話を牧原の爺さんとした後、一時間ほどみんなと酒盛りをして、希望荘に帰宅した。帰宅して、小腹が減ったのでお茶漬けでも食べようと台所に入ったら、ちょうどななえ婆さんが洗い物をしていて、僕に「お握りが部屋にあるから食べるかい?」と言った。
「ななえさん! なんで僕の気持ちが分かるんですか?」
「そんなの、見りゃ分かるよ。兄さん、酔っ払ってるじゃないか」
「あそっか」
それで、ななえ婆さんの部屋へまたお邪魔することになったのだが、今日は、先客がいて、田中の爺さんがななえ婆さんの部屋の真ん中に鎮座していた。それを見て、なんだか悪い予感がした。また、僕は彼に変な話を聞かされて、混乱しまくるのではないかと思った。案の定、田中の爺さんは僕の姿を目にするや、「お主は、やっと真相に近付きつつある」と言った。
「はぁ~」
僕は大きなため息を吐いた後、「真相ってなんですか?」と田中の爺さんに訊いた。
「希望荘の謎に決まっておろう」
やっぱり、田中の爺さんはいつも変なことを口走る。
「そうなんですか、僕は真相に近付きつつあるんですね」
「ただし、真相は一つではない」
「どういう意味ですか? 真相は多面的ってことなんですか?」
「多面的というより、謎は一つではないということじゃ」
「……」
ということは多くの謎がこの下宿にはあるということなのか。しかし、その謎が全部解けたとして、一体そのことに何の意味があるというのだろう? しかも、それと僕と何の関係があるというのか? 田中の爺さんは僕がこの希望荘のカギを握る人物だと訳の分からないことを言っていたが……。とりあえず、今は深く考えないことにした。僕は、田中の爺さんを無視し、さっきから僕たちの会話を黙って聞いていたななえ婆さんに向かって質問した。
「あの、……ちょっと訊いていいですか?」
「なんだい?」
「大家さんの亡くなった奥さんは、ななえさんの妹さんだったんですか?」
僕がそう言うと、しばし、ななえ婆さんは絶句していたが、やがて静かに「ああそうだよ」と言った。
「いつ亡くなったんですか?」
「五十五年前だよ」
「五十五年前なんですか! 五十五年前って、大家さんと蔵元さんの喧嘩が始まったのも、たしか五十五年前だったんですよね?」
「そうじゃ。今、お主の考えていることはおそらく当たっておる。ななえさんよ、もう全部話すべきときがきておるのではないか?」
「そうだね」
「随分若くして亡くなったんですね。ご病気か何かだったんですか?」
「いや、違う」
「え?」
「事故だったんだよ」
「事故?」
「可哀想だった。これから、幸せになるってときだったのに……。あたしのほうが先に死ねば良かったんだよ。代われるものなら代わってやりたかった。なんであたしは、いつまでも生きてるんだろうね……」
そうななえ婆さんは悲し気に呟くと、それから、まるで昔話をするかのように静かに語り始めた。
「五十八年前、妹の幸子はね、東京の百貨店で働くために、十八歳で秋田から上京してきて、この希望荘に住み始めたんだよ。あの子は本当に綺麗な子で、あたしの自慢の妹だった。百貨店でも、一番目立つ総合案内所で仕事をしていて、お客さんからも従業員からも、毎日のように『うちの息子のお嫁さんになって欲しい』と言われるくらい人気者だったんだよ。当然、大家の家守健三も隣の蔵元一郎も幸子に恋をした。あの子は器量良しだっただけでなく、心も綺麗な子だったから。求婚者はいっぱいいたから、いくらでも玉の輿に乗ろうと思えば乗れたのに、あの子が選んだのは、家守健三だった。彼は自分が戦争孤児だったせいか、身寄りのない子供たちを援助したり、近所の年寄りを大事にしたりする良いヤツだったしね。希望荘の元々の持ち主の家守健三の育ての親も、彼に感謝しながら死んでいったよ。だから、上京して三年経ったときに、幸子が家守健三と結婚したいと打ち明けたときも、あたしも心から賛成した。ライバルの蔵元一郎さえも仕方がないと納得してた。でもね、運命は過酷で、悲劇はある日突然起こった。幸子は、結婚式を挙げた翌日に、交通事故で命を落としたんだよ」
「……交通事故で?」
「うん」
「車に轢かれたんですか?」
「うん。あの子はね、酒好きの夫を喜ばせようと、開店したばかりの店に向かってたんだよ。なんでも外国産の酒を集めた店で話題になっていたし、あの店のシャンパンを飲んでみたいと家守健三が言ってたからね。幸子も結婚のお祝いに二人で飲もうと思っていたんだろうね。でも、慣れない道だったからか、その店からの帰宅途中、事故に遭って亡くなってしまった。だから、蔵元一郎は家守健三が許せないんだよ。お前があんなことを言わなければ、幸子は死ななかったんだって。この間のパンジーもね、あの子がずっと大事に育てていたパンジーを、あの子が亡くなった後も蔵元一郎が絶やさずにいてくれたんだよ。毎年、秋になったら種を植えて花を咲かせ、春には種を収穫する。そしてまた秋に種を植える。蔵元一郎は、それを毎年、続けてきたんだよ。家守健三もね、あれ以来、一滴も酒は飲んでいない」
「……」
僕は、それを聞いて涙が止まらなくなり、一人で泣き続けていた。原口幸子は沢野絵美と同じ亡くなり方をしていた。その偶然が一層僕を泣かせた。
「十号室の幽霊は、大家の家守健三なのじゃ。あの部屋は、原口幸子が住んでいた当時のまま、残されておる」
その晩も、十号室から泣き声が聞こえた。僕はその泣き声が気になって、部屋を抜け出し、十号室のドアをそっと開け、部屋の中を覗いた。部屋の中は、女の子らしい可愛いもので溢れていた。花柄のカーテン、ぬいぐるみ、洋風の鏡台……。この部屋に住んでいた若くて美しい原口幸子が、周りの人からどんなに愛される存在だったか、容易に想像できた。大家は、五十五年前から時が止まったままの部屋の真ん中に座り、原口幸子の写真が貼られているだろうアルバムを眺めて泣いていた。僕は、大家に気付かれぬように、そっとドアを閉めた。そして、十号室の真向いの一号室、田中の爺さんの部屋のドアが開いていて、光が漏れているのに気付いた。ドアの隙間から部屋の中を覗くと、田中の爺さんが蝋燭を灯し、瞑想している姿が見られた。きっと、彼は、家守健三と原口幸子のために祈りを捧げているのだろう、そう思った。




