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希望荘の住人  作者: 早瀬 薫
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第八話 2

 そんな話をしていたら、もう外は暗くなっているのに、また大家と蔵元の爺さんが、下宿の玄関先で喧嘩をしている声が聞こえてきた。ななえ婆さんはその声を聞いて、外に飛び出て行った。僕と田中の爺さんは、喧嘩の様子を台所の窓から窺った。


「なんでこんなことになったんや!」

「知るか。お前が玄関先なんかに置いてるからだろ。そんなに大事なものなら、鍵をかけてしまっておくべきだったな」

「じゃかましいっ! あのバカ猫、絶対容赦せんぞ!」

「猫がほじくったのかい?」

 ななえ婆さんは大家に訊ねた。

「そうみたいだな」

 三人は、萎れているパンジーの鉢を見ながら会話していた。どうやら、近所の野良猫が鉢を荒らしたらしい。パンジーは萎れているだけでなく、花や葉がもぎ取られていたり、土が掘り起こされていたりして、とてもじゃないが再生しそうになかった。

「そんなにがっくりするんじゃないよ。そういえばさ、この間、隣町のホームセンターにやかんを買いに行ってそのとき見かけたんだけどさ、パンジーの苗を売ってたから、買って来て植えればいいんじゃないの」

「アホか! パンジーならなんでもええってわけやないんや!」

「なんでだ?」

「お前、まさか理由を知らんのか!」

「知るわけがない」

「お前みたいなトウヘンボクは、くたばっとけや!」

「なんだとっ!」

「もう、ほんとに、いい歳こいたじじい二人がいつまでも喧嘩してさ、みっともないったらありゃしない」

「黙れ! くそばばあ!」

「黙るのはあんただ! くそじじい!」

「あ、もしかして、お前……まさか……」

「……」

 急に黙り込んだ二人を見て、ななえ婆さんもしかめっ面をして暫く考え込んでいたが、何かを思い出したのか、漸く口を開いた。

「もしかして……もしかして、あんたは五十五年前からこの鉢を守ってきたのかい?」

「そうや! 悪いか?」

 蔵元爺さんがそう答えると、今度はななえ婆さんが黙り込んだ。大家も黙り込んだままだった。蔵元の爺さんは、鉢を大事そうに抱えると、黙ったままの二人を残して、家に帰って行った。残された二人は押し黙ったまま、そこに立ちつくしていた。どうやら、今回の喧嘩はここでお開きになったらしい。


 僕と田中の爺さんは、窓から三人の様子を見ていて、いつもと違う雰囲気を感じていた。今日の三人には、三人とも共通に漂う感情があった。あのパンジーには、きっと、悲しい物語が隠されているに違いない。僕はそう感じていた。


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