第八話 1
僕は、この七号室の引きこもりくん、藤堂啓太に抱きしめられたまま、茫然と立ち尽くしていて、何を一体どうすればいいのか混乱状態だったが、暫く経つと、藤堂啓太は、今、自分は一体何をしていたのだろうか?というような表情になり、僕からぱっと離れた。
なんだ? 今、何があったんだろう? 彼は僕のことを誰か親しい人と見間違えたんだろうか?
ななえ婆さんは、「取りあえず風呂に入れ」と藤堂啓太を説得したが、ななえ婆さんが怒った顔で言うと、彼はまた僕にしがみ付き背後に隠れた。僕が「そのほうがいいと思うよ」と言うと、何故だか僕の言葉には素直に従い、すんなり階下についてきた。
「まったく、男ってぇのは、なんでこんなに面倒なヤツばっかなんだろうね。引きこもりといい、佐々木吉信といい、大家といい、隣のじじいといい……」
「確かに……」
「まぁ、あんたはまともな方だね」
「はぁ、どうも……」
ななえ婆さんは僕の顔を見ながら、うんざりしたように呟いた。でも、よく考えたら、僕もついこの間まで、藤堂啓太と似たような風貌だったし、なんだか他人事のように思えず、だから、僕は彼の背中でも流してやろうと思い立ったのだった。きっと、彼の背中には、てんこ盛りの垢がこびりついているに違いない。藤堂啓太と一緒に風呂に入ろうとすると、ちょうど入浴を終えたばかりの田中の爺さんが風呂場から出て来ようとしていたところに出くわし、田中の爺さんは、藤堂啓太を見て「おおおおおっ!」と物凄くびっくりしていた。でも世間の人からすれば、田中の爺さんも同じくらい驚くような風貌だとは思うのだが……。
一方、ななえ婆さんは、ぶつくさ言いながらもボロ布みたいな状態の藤堂啓太のために、手早くできる親子丼を作って、彼が風呂から上がるのを待っていた。おそらく、まともな食事をするのが久しぶりだったのだろう、藤堂啓太は風呂から上がり、親子丼を目にすると、尋常ではないスピートでこれでもかというくらいにガツガツと貪り食った。その様子を僕とななえ婆さんと田中の爺さんは、呆気に取られて眺めていた。食べ終わったら誰かが何か話すのかなと思っていたが、藤堂啓太は黙ったままで居ずらそうにモジモジと食卓についているので、ななえ婆さんが「食べ終わったんだったら歯を磨いて寝ろ」と言ったら、すごすごと二階の自室に帰って行ってしまった。
大家に始まり、蔵元の爺さん、田中の爺さん、中村誠、藤堂啓太、まだまともに見たことはないが九号室の佐々木吉信、そしてポチのような自分。ななえ婆さんは、僕はまともだと言ったが、どう見ても僕もまともではない。全員どこかおかしい。ああ一人だけ、浜本琢磨だけはまともだと思った。ただし、彼でさえも大学を辞めねばならない苦境に立たされている。
「ちょっと聞いていいですか?」
「いいよ」
「十号室は、最初から空き部屋だったんですか?」
「いや」
「え?」
「最初は住人がいたんだよ」
「ええっ?」
「あの部屋に入っていた子は、若くして亡くなったのさ」
「……」
僕は「それで、あの部屋から幽霊になった住人の泣き声がするんですか?」と訊こうとしたのだが、ななえ婆さんも田中の爺さんも悲痛な顔をしていて、その顔を見ていたら何も言えなくなった。あの部屋がいわくつきの部屋だというのは、やはり本当のことだったのだ。




