第六話 10
雨はにわか雨だったようで、すぐに上がったようだった。僕は、今日も童話の続きを書いていた。書いている童話は、主人公の王子が色々な国を訪れ、人々の生活を目の当たりにし、その人たちにとって、何が一番大切なものか、こっそり観察しているというような話の流れになっていた。しかし、登場人物の背景を最初にいろいろ細かく設定してから物語を書いていたはずなのに、この希望荘で住人と接触するようになってから、どうも登場人物全員が希望荘に住む人間に勝手に似てくる気がして、不思議で仕方がなかった。例えば、南の国の王の弟、つまり主人公の王子の叔父は医術を扱う研究者で、しかも人の心が読める人物だが、髪の毛と髭を伸ばすだけ伸ばした魔術師のような風貌をしていた。この変わり者の叔父のことを書くとき、どうしても僕は田中の爺さんを思い浮かべてしまうし、東の国からお嫁に来たこの叔父の妻である義理の叔母は、やたらと威勢が良くいつも火を起こしては何かを焼いて料理をしていて、なんでだか、ななえ婆さんとそっくりになってしまうのだった。
僕がごく小さい頃は普通に幸せだったと思うのに、愛する人を次々に亡くし、結局僕は今、天涯孤独の身となっている。祖父が、亡くなる間際に言った「いいか、あの話の続きは自分自身で探すんだぞ。これはお前の人生で一番大事なことだ。お前の人生の最大の転機になった時、それは訪れる。決して見逃してはならない。大切なものを見つけたとき、お前の人生はより豊かになるだろう」という言葉を僕は再び思い出していた。人生の最大の転機は、おそらく今なのだろうと思う。けれども、僕は大切なものを見つけられていない。未だにそれが何なのか見当も付いていない。祖父は「決して見逃してはならない」と言った。ということは、見逃す可能性もあるってことなんだろうか? そんなことを考えていて、僕は重大なことを忘れていたことに気付いた。戸田翔子に図書館で本を借り受けたとき、彼女は確かに言ったのだ、「大切なものはもう現れている」と! 僕はもう現れているだろう大切なものを何が何でも見逃してはならないのだ。僕のこれからの人生が、実りある豊かな物となるために。それが亡くなった祖父と祖母の願いだったのだから。
僕は図書館で借りた「宇宙からきたコロボックル」の初版本を開いた。そして、もう一冊、この間、戸田翔子の勤める書店で手に入れた最新版本の「宇宙からきたコロボックル」を並べて開いた。イラストは全部で十枚で、見比べると、確かにこの二冊の本のイラストにはところどころ相違が見られた。けれども、全部が全部ではない。どうやら、二枚目、三枚目、五枚目の三枚だけのようだった。ぱっと見た感じ、どこがどう違うのか分からなかったが、よく観察してみると、初版本にはない図柄が、最新版本のほうにはあることが分かった。大勢いるコロボックルの仲間の中に、おかっぱ頭の小さな可愛い人間の女の子が一人紛れ込んでいるのである。このことに、何か意味があるのだろうか? きっと何か意味があるのだろう。その理由を、調べられるものなら、調べてみたいと思った。
僕は、他にも何か違いはないかと初版本を手に取り、表にしたり裏返したりして確かめた。「宇宙からきたコロボックル」には、表紙と同じ図柄のカバーが掛けられていて、取り外せるようになっているのだが、この初版本は、最初は誰か個人の所有物だったのか、折り返されたカバーの端が本の本体に糊付けされてくっ付いていた。所有者がカバーを失くすのを嫌がって、糊付けしたのではないだろうか? 何故僕がそう思ったのかというと、僕自身の子供の頃にもそんな風な癖があったからである。しかし、初版本は何分古く、糊も風化していたのか、僕が本を読んでいるときに剥がれたようで、ページを捲る度にカバーがずれてどんどん上に上がってきていた。僕は、ずれているカバーをきちんと本に掛け直そうと思い、一度カバーを本から外してみたのだが、そのとき、驚くべきことが起こった。カバーの裏に手書きの文字が並んでいるのを発見したのである。しかも、その手書きの文字は手紙のような文章だった。僕はその文章を最後まで読んだとき、不覚にも泣いてしまっていた。この短い文章に、ある人に宛てられたありったけの思いが込められていたからだった。そのとき僕は、この本は、どんなことがあっても、元の持ち主に返すべきだと思った。そう絶対に!
僕は、二冊の本をゆっくりと閉じると抽斗の中にしまった。そして、もう一冊、沢野絵美に貰った「ミリルの冒険」を取り出し、ひとしきり眺めた後、また、決意を新たにしたかのように、本をぱたんと閉じて抽斗にしまい、一心不乱に童話の続きを書き始めた。
何時間集中していたのだろうか? 気が付くと、夜が白々と明け始めていた。僕は伸びをすると、後ろに敷いてあった布団にそのまま倒れ込み、気絶するように寝入った。
目が覚めたのは、正午に近い時刻で、僕はまた猛烈な尿意を感じ、トイレに行こうとドアを開けようとしたが開かなかった。またもや、ドアの前にタンスが置かれているようだった。僕は、今回もドアごと吹っ飛ばしてやろうと部屋の端に移動し、助走をつけて勢いよくドアに体当たりしたが、今回は僕のほうが後ろに吹っ飛ばされた。何回繰り返してもドアはびくとも動かなかった。もしかしたら、タンスとドア枠を釘で固定しているか、タンスの抽斗の中に重石でも入れているのではないかと思われた。
僕は、次第に焦り始めた。膀胱の壁はパンパンに張りつめ、とっくの昔に許容範囲を超えている。わーわー叫んでみたが、誰も助けに来てくれない。ななえ婆さんは今朝早くから老人会の集まりに出掛けると言っていたし、田中の爺さんもどこかに出掛けているようだった。それでも、僕は、諦めずに何度もドアに体当たりし続けた。しかし、ドアはやはり動かなかった。僕は、言いようのない底知れぬ絶望感を感じた後、観念した。僕は、大人になって初めておもらしをした。中村誠だけは、一生涯許すまじ!と固く心に誓った。




