第六話 9
それから、三人で焼き上がった干物と煮物を黙々と食べていた。やっぱり、炭火で焼いた干物は美味かった。秋川緑は料理上手らしく、彼女の作った煮物も美味かった。
「あのね、ななえさん、ちょっと訊いていい?」
唐突に秋川緑が言った。
「なんだい?」
「さっき台所で料理してたときにね、また、外で派手に大家さんと蔵元さんが喧嘩してたのよ。ずっと謎なんだけど、なんでいっつも喧嘩してるの?」
「そうそう、僕もさっき喧嘩の最中に出くわして、また蔵元さんに『ワシの敷地を通るな!』と怒られましたよ。この間なんか、下宿の中まで勝手に入って来てたのに。まったく、わけが分からないです」
「もうね、ほんとに、あの二人って、いい歳してよくやるわ。何が原因なんだか知らないけど、いい加減仲直りすればいいのに」
「そりゃ、無理だろうよ」
「え? どうして?」
「もう二度と元に戻らないことで喧嘩してるからさ」
「どういうこと?」
「それは、あたしの口からは言えないよ。あの二人に直接訊いてみなよ」
「……」
「それはそうと、ななえさんは、若い頃、何をしてたの?」
気まずくなった秋川緑は急に話題を変えた。
「ババアの過去なんか知ってどうするんだよ」
「訊いたらダメだった?」
「いや、話したところで面白くもなんともないからさ。まぁ、あたしは、平凡な女だったよ。料理をするのは好きだったから、ずっと飲食店に勤めてた。歳を取ってからは建築会社の寮の飯炊き女をやってたんだけど、年金を貰えるようになってからは隠居暮らし。ただそれだけさ」
「この下宿には五十五年前から住んでるんですよね?」
僕が訊ねた。
「いや、違うよ。四十年くらい前からだよ。でも、まぁ、ここが新築で建った当初から、この下宿には、何度も来てたと言えば来てるんだけど」
「?」
「妹が住んでたことがあったんだよ」
「そうなんですか」
「もう、随分、昔の話だけどね」
ななえ婆さんはそう言うと、遠い過去の思い出を空中に見つけて懐かしんでいるかのように、ある一点を見つめ続けた。
「ねぇ、ななえさん、この下宿って、結構有名な人が住んでたことがあるって聞いたことがあるんだけど」
「ああ、あるよ。今でもたまに大家を訪ねて来てるんじゃないの」
「え? どんな人?」
「大会社の社長とか女優とか」
「えーっ? マジで? え、誰、誰? 教えて!」
「ST建設って知ってるかい?」
「えーっ! 知ってるも何も、超有名じゃん! 新宿の超高層ビルって、確かST建設が建ててるよね?」
「そうだったっけ?」
「そうですよ! 都内の有名な超高層って、ほとんどそこが建ててるらしいですよ! ST建設の社長さんが住んでたんですか?」
「そうそう。しかし、あの子も出世したもんだよねぇ」
「女優さんは誰なの?」
「伊吹慶子」
「い、い、伊吹慶子!? 大女優じゃないの! あの人がほんとにここに住んでたのっ!?」
「うん、住んでたよ。あの子ともよく二人で干物を食べたよ」
「マジでっ!?」
「うん」
「へぇー」
「だからさ、あの子らに出来たんだから、あんたたちもさ、これからいくらでも出世できるんじゃないの? やる気さえあればね」
三人でそんなやり取りをしていたら、これから雨でも降るのか、空がゴロゴロと音を立て始めた。洗濯物はちゃんと取り入れたかどうか思い返していたのだが、ふと嫌なことを思い出した。雷が鳴っているということは、例の人が例のごとく例のことを起こすということだった。早くおさまればいいと思うのに、僕の希望に反して、雷は止むどころかもっと大きな音を立て始めた。そして、どしゃ降りの雨も降り始めた。僕は、思わず身構えた。案の定、九号室のドアがバタンと開く音がし、廊下を走る足音がしたかと思うと、階段をドタドタと一気に下りて行った。そして、一階のあちこちで「うぉおおおおお」と雄叫びが聞こえ、その度毎に「わあああ」とか「きゃーっ」とか誰かが叫んでいた。おそらく、帰宅した浜本琢磨と真紀という子だろう。佐々木吉信は、やはり、そのまま、裸足で外に走り出て行ったようだった。彼が外に出て行くと辺りは急に静かになり、雷もだんだんおさまり、雨も小雨になって来たようだった。僕と秋川緑は、顔を見合わせて、「ふうっ」とため息を吐き、ななえ婆さんは、「やれやれ」とボヤいた。




