第五話 10
戸田翔子と別れて急いで希望荘に戻って来て、田中の爺さんを問い詰めてやろうと思い、一号室のドアを叩いたのに留守だった。なんだか拍子抜けした。
それから、僕は、寝食を忘れて、机に向かって童話を書き続けた。一心不乱に書いていて、気付けば、もう午前二時になっていた。流石に眠気が襲い、布団に倒れ込むとそのまま寝入っていた。このまま、朝まで眠り続けるだろうと思っていたのに、夢の中で誰かが泣いていて、僕は寝汗をかき、うなされていた。泣き声が大きくなったとき、僕は驚いて飛び起きた。すると、目の前に田中の爺さんの顔があった。
「うわあああ!」
暗がりで見る田中の爺さんの顔は、化け物のように怖ろしい。
「起きたか? 大丈夫か?」
「なっ、なんでっ、田中さんがここにいるんですかっ!?」
「それはお主が心配だったからに違いなかろう。ずっとうなされておったであろう?」
「夢の中で誰かが泣いていたんです。しかも物凄く辛そうに……」
そう言った途端、どこかの部屋から泣き声が聞こえてきた。おそらく十号室だろう。
「夢ではないようじゃな。もう随分長い間、あやつは泣いておる」
「五十年前から?」
「そうじゃ。いや、正確には五十五年前からだそうだがの」
「ななえさんがそう言ってたんですか?」
「そうじゃ」
「ななえさんが十号室は幽霊部屋だと言ってました」
「確かに。幽霊は住んでおるかもしれぬ」
「……」
僕は、十号室が何故幽霊部屋になってしまったのか訊きたかったのに、どうしてだか訊く勇気が湧かず、急に話題を変えた。
「田中さん、夜更けに話すことでもないでしょうけど、ちょっと訊いていいですか?」
「なんなりと訊くがよい」
「田中さんは戸田翔子さんと知り合いなんですか?」
「おう、知り合いじゃ。こんなワシにもファンはおると言うておっただろう?」
「ファン? 戸田さんは田中さんのファンなんですか?」
「そうじゃ。悪いか?」
そう言って、田中の爺さんは憮然とした表情をしたので、僕は慌てて「い、いや別に」と答えた。
「田中さんは戸田さんに僕のことを話したんですか?」
「ほう? 話したことがあったかの?」
「僕の大切なものはもう現れているそうですね。僕と亡くなった祖父との約束をなんで田中さんが知ってるんですか?」
「ほう?」
「ほう?って、とぼけないでくださいよっ! 絶対僕に何か隠してるでしょっ!」
「隠してなどおらぬ!」
「僕の祖父と田中さんは知り合いだったんですか!」
「知り合いなわけがなかろう」
「じゃあ、何故僕が大切なものを探していると知ってるんですか?」
「だから、お主とは前に会ったことがあると言ったであろう? それをお主は忘れておるだけじゃ」
「……」
「本当はお主もワシのことはよく知っておるはずなのじゃ」
「ど、どういうこと!?」
「記憶喪失にでもなったのであろう」
「……」
「それじゃあ、ワシも寝るとするかの。さらばじゃ」
そう言って、田中の爺さんは自分の部屋へ帰って行った。
僕は希望荘に来てからというもの、まるで夢の中に生きているかのように混乱したままだった。殊にこの田中の爺さんが余計に混乱させているように思えた。暫く布団の中で悶々としていたが、眠気には勝てず、やがて僕はもう一度眠りについた。しかし、また夢を見ていた。
夢の中で、やはり誰かが泣いている。
楡の木のすぐ傍に、長い髪の美しい女性の後姿が見えた。
その女性の頭上には満月が輝いているのであった。
第六話へ続く




