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希望荘の住人  作者: 早瀬 薫
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第五話 8

 約束の時間と場所は、日曜午後二時に図書館の閲覧室でだった。部屋を出るとき、また中村誠に嫌がらせをされるのではないかと思って警戒していたのだが、彼は出掛けたのか四号室はからっぽのようだった。

 僕はほっと胸をなでおろし、図書館へ向かった。図書館に着くと、戸田翔子は先に到着していて、閲覧室で僕を待っていた。昨日、ショッピングセンターで睨み合いをしていたから、僕も戦々恐々としていたのだが、遠くから眺めていると、今日の戸田翔子は昨日と打って変わってお淑やかな女性に見えた。眼鏡を外し、黙って立っているだけならば、亡くなった沢野絵美のような美しく優しい女性に見えるのに、なんでこうも戸田翔子は沢野絵美と全く正反対の性格をしてるんだろう?と残念に思った。

「こんにちは。お待たせしてしまってごめんなさい」

 僕は戸田翔子にそう声を掛けた。


 「宇宙からきたコロボックル」の返却、貸出の手続きを終えると、二週間前と同じように図書館に隣接しているカフェの同じ席で僕と戸田翔子は向かい合って座っていた。僕は席に着くと、ウィンドウに映った自分の姿を確認した。そこには、やはりもっさいポチたまのポチみたいな人間がいて、今の自分はダサくて、とてもじゃないが女性に好かれるような容姿をしていないのだと頭に叩き込んだ。また戸田翔子に変なことを口走って、最悪な事態に陥らないように……。


「本当にもうお借りしていいんですか? もっと手元に置いておきたかったんじゃないですか?」

「それはそうですね!」

「あ、やっぱり……」

「待ってる人がいるんだからしょうがないでしょ」

「……」

「でも、いいのよ。だって、篠原さんだって、待ち望んでた本だったんだから」

 不思議なことに、今日の戸田翔子は僕に譲歩しようとしている。でも、僕が先に借りるはずだったものを彼女が横取りしたんじゃなかったっけ? やっぱりなんだか腑に落ちない。

「それはそうですけど……」

 あ~、なんで僕は「それはそうですけど……」などと弱気な物の言い方をしているのだ。こら、もっと、びしっとしろ! びしっと!


「でも、なんで篠原さんて、この本に拘ってるの? この本、初版本とその後に出た本と所々イラストが差し替えになってるでしょ? 私は、見比べてみたいと思って探してたんだけど」

「僕もね、知人からそのことを訊いて、一年半前からずっと探してたんです」

「ふーん。篠原さんも知人の方もすごく絵本に詳しいのね」

「まぁ、そうかも」

「イラストが差し替えになる前の初版本を探しているなんて、相当なファンじゃないと知らないことだと思うし、初版本が見つかって、あなたも知人の方も喜んだでしょ?」

「そりゃあ、嬉しかったですよ。でも、残念ながら、知人は、もうこの絵本を見ることは出来ません……」

「?」

「去年の春に、亡くなったんです」

「え……」

「もっと早く見つかっていたら良かったのにと思いましたけど、でも、見つかっただけでも奇跡みたいなもんです」

「そうだね。この本は、篠原さんにとっても、私にとっても思い出深い本だったのね……。でもね、私がこの本を探していたのは、差し替えになったイラストを見比べたいというのもあったけど、本当の理由は、亡くなった母がこれと同じ本を持っていたからなの」

「そうなんですか……」

「母は私が十歳のときに病気で亡くなり、父も二年前に他界したんだけど、この本はイラストレーターになるのが夢だった母に父が結婚前に贈ったものと同じものなの。母が村口勉さんの大ファンだったから。古い本だから、その当時も手に入れるのが大変だったらしくて、父も探すのに苦労したらしいわ。それで母が亡くなった後も私はすごく大切にしていたんだけど、増えすぎた蔵書を処分するために図書館に寄付したことがあって、そのときに父が誤って紛れ込ませてしまったらしいの。もう、あのときは、ほんとにがっくりしたわ。父もすごく後悔してたけど、間違って寄付してしまったと気付いたのが半年も経ってからだったから、見つけるのはもう無理だと思ってた。母の本じゃなくてもいい、同じ初版本をもう一度見たいと思って、あれから色んな図書館を探し歩いたんだけど、全然見つからなくて諦めてたの。だから、この間、偶然見つけたとき、すごく嬉しくて、思わず奪うようにして先に借りてしまって、篠原さんには申し訳ないことをしたと思ってます。本当にごめんなさい」

「いや、でも、そんな理由があったんですね……。だから、あのとき、この本は戸田さんにとって大切なものだと仰ってたんですね。だったら、ちゃんと理由を教えて下さったら良かったのに。そしたら、僕も戸田さんに、あんな失礼なことを言わずに済んだのに……」

「『僕の後を付けてきたんですか?』かな?」

「もう、恥ずかしいからやめてくださいよ……」

「でも篠原さんて、よく見ると、顔立ちは整ってるほうだと思うよ。髪を切って眼鏡をはずしたら、モテるんじゃないかな。なんでわざわざそんな髪型をしてるの?」

「僕はいろんなことから逃げてるんです。多分、もう傷付きたくないんです」

「そう、なんだ……」

「ええ」

「誰だって、逃げ出したくなることなんてあるよ。私なんてしょっちゅうだもの」

 僕は「ミリルの冒険」を読みながら、公園で泣いていた戸田翔子を思い出していた。

「ちょっと、訊いていいですか?」

「?」

「あの日、どうして戸田さんは泣いていたんですか?」

「公園でのこと?」

 僕は無言で頷いた。

「私の夢は母と同じく、村口勉さんみたいなイラストレーターになることなの。でも、出版社に作品を何回持ち込んでも相手にされなくて、それで情けなくて泣いてたの。だって、通算百回も門前払いされてるんだもの」

「えー!? そんなに!?」

「そう。でも、本当の夢はね、イラストレーターというより、絵本を出版することかな。だけど、お話のほうはうまく書ける自信が全然なくて……」

「絵本を出版することが夢なんですか!?」

「ええ」

 僕が驚いて絶句していると、戸田翔子はちょっとしかめっ面になって、「えー、なんでですか? なんでそんな顔をするの?」と言った。

「い、いや、僕も戸田さんと同じく絵本を出版できたらいいなと思ってたんです。僕は文章専門ですけど……。僕の夢は児童文学の作家になることなんです」

「えーっ? ほんとにっ?」

「なんだか、昨日の買い物といい、戸田さんとは共通点が多いですね」

「そういえば、そうだね」


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