第五話 4
本当は午前中のうちに出掛けたかったのだが、四号室の中村誠は自室のドアを開け放していて、僕がトイレに行こうと部屋から出る度に、彼が飛び出てきて「どこへ行くんですかっ?」と詰問してくるので、どこにも行けなかったのだが、出版社勤務という忙しい仕事柄、中村誠も午後から渋々仕事に出掛けたようだった。僕は、斜め向かいの四号室のドアがきっちり閉まっていることを確かめると、意気揚々と外へ飛び出した。
教員をやっていたときから、元々荷物は少なかったのだが、引越の時にさらに処分してしまって、足りないものが多いことに気付いた。これから自分は人生をやり直すのだから、少しは人間らしいまともな生活をしようと、生活用品を揃えることにした。
取りあえず、駅に隣接しているショッピングモールに出向いた。こんなにキラキラしているところに出掛けたのは、久しぶりだったので頭がクラクラした。まず、二日前に新しく開店した家具屋と電気屋が合体した店に入ったら、あまりの人の多さに、これまた眩暈がしたが、置いてある家具がどれもオシャレで、見ているだけでなんだか気分が華やいだ。
その中で、一人用の小ぶりの丸い座卓を見つけ、しかも炬燵にもなるものだったので、「これいいな、満月みたいだな」と思って見ていた。すると、どこからか視線を感じたので、周囲を見回したら、帽子を目深に被った女性がこちらをじっと窺うように見ていた。気になったので僕も彼女のことをじっと見返していたら、その女性は居心地が悪くなったのか、どこかに消えてしまった。
それから、その炬燵を購入する手続きをして、今度は目覚まし時計を見ていたら、やっぱり丸い時計が気になったので、それを購入しようと店員さんに声を掛けたら、店員さんの向こう側にさっきの女性が憮然とした表情で立っているのに気付いた。その女性の顔をよくよく確認したら、な、な、なんと! 戸田翔子だった。
僕は「やばい……」と思ったけれど、別に悪いことをしているわけじゃないから、「あ、こんにちは~。奇遇ですね~」と普通に笑顔で挨拶してそのままやり過ごして、違う売り場に移った。今度は寝具売り場を物色していたら、丸座布団を見つけたので、ホクホクしながら購入していて、ふと視線を感じて横を振り向いたら、またもや戸田翔子が物凄い表情をして、そこに突っ立っていた。
僕は、おずおずしながらも、本の件もあるし、ここは愛想よく笑顔を作って「よく会いますね~」と言うべきだなと思って、そうしようと思ったが、思わず口が滑って本音が出てしまった。気付けば、笑顔で「僕のことを付けてるんですか~?」と口にしていた。
「はあああああっ!?」
今回も戸田翔子は鬼の形相でそう言った。
「す、す、すみませんっ! そ、そんな訳ないですよねっ」
「さっきから、私が買おうと思ってた物ばっかり、先にあなたが買ってるから、腹が立って見てただけですっ!」
「へっ!?」
「私、丸いものが好きなんですっ!」
「そ、そうですかっ。き、奇遇ですねっ。ぼ、ぼ、僕も、そ、そうなんですよっ」
僕がそう言うと、戸田翔子は、顔をもっとしかめて、胡散臭いものでも見るような眼つきになったが、「あなた、浮浪者なのに人並みの生活をする決心がついたみたいね」と言った。
「……」
「ま、頑張れば? さよなら!」と言って、くるっと踵を返すと一度も振り返らずに帰って行った。僕は彼女が店の出口から出て行ったのを確認すると、心底ほっとした。
しかし、ほっとしたのもつかの間、振り返ったら僕のすぐ後ろに、またもや鬼の形相をした中村誠が立っていて、僕は腰を抜かしそうになった。
「篠原君、何やってるんですか?」
「な、な、なにも……」
「何もって、買い物してたじゃないですか」
「あ、そ、そうそう、買い物してたんですっ!」
「買い物した後、彼女としゃべってましたよね?」
「……」
やっぱり見られてたかと、僕は観念した。
「待ち合わせしてたんですか?」
「し、してません! 偶然です!」
僕はそう言ったが、中村誠は「なんか、怪しい」と言いながらも、「でもさっきから付けてたけど、偶然には違いないみたいだし……」とブツブツ言い、「じゃあ、下宿に帰りましょうか」と彼と一緒に希望荘に帰る羽目になった。そして、希望荘に着いて、中村誠は、また僕が自分の部屋へ入るのをきっちり確認してから、漸く僕の前から消え去った。。
しかし、困ったことになったと思っていた。実は、明日は、図書館でトラブルの原因となったあの絵本を戸田翔子から借り受ける約束の日だった。明日は日曜で、確か中村誠も日曜は会社が休みの日のはずだった。僕は、どうやって、下宿を抜け出そう?と考え込んでいた。




