第四話 11
土曜の朝、台所で一人でトーストを焼いて朝食を食べようとしていたら、浜本琢磨がやって来て、またサイフォンでコーヒーを淹れてくれた。そしたら、コーヒーの良い香りに引き寄せられたのか、中村誠も台所に降りてきた。僕は、三人分のトーストを用意し、浜本琢磨は三人分のコーヒーを用意し、中村誠は三人分の目玉焼きを用意しようとガスレンジの前で熱したフラインパンに卵を三個割り入れていた。中村誠は、調理しながら物凄い勢いで煙草を吸い、換気扇に向かって煙を吐き出していた。ガスレンジの脇に置いてある灰皿に、ときどき煙草の灰を落としていたが、手元が狂って火の点いたままの煙草を床に落としてしまった。それを見ていた僕は、咄嗟に煙草を拾って灰皿に置いたが、彼の吸っている煙草がハイライトだったので、亡くなった祖父を思い出して妙に懐かしくなった。
それと同時に、またフラッシュバックが起こり頭の奥が疼いた。老いた男二人が大声で喧嘩をしている。何が原因でそんな喧嘩をしているのか僕には分からない。けれども、二人の深い悲しみが僕には伝わってくる。二人とも大切なものを失ってしまったのだ。そして、男たちの戦いは果てることなく永遠に続くのだろうと僕は感じていた。そのとき、中村誠が「ありがとう」と僕に声を掛け、僕は我に返った。
さっきから中村誠を観察していたのだが、どう見ても彼はヘビースモーカーだった。目玉焼きを作るたった十分かそこいらの時間で、三本も煙草を吸い終えていた。その様子を見ていた浜本琢磨は「中村さん、今日は特にイライラしてるみたい」と呟いた。それを聞いて僕は、「ふーん、そうなんだ……」と呟いた。
目玉焼きが出来上がり、男三人で無言で朝食を食べていたら、物凄くボサボサの頭をして眠そうな目を擦りながら、秋川緑が台所に入って来た。そして、「あー、いいなー。でも、今朝はちょっと気持ち悪いから、水だけでいいや……」と言いながら、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してきて、食卓にもつかず立ったまま飲み始めた。五百ミリリットルを一気に飲み干して、「そいじゃ、さよなら」と台所から出て行こうとしていたのに、秋川緑は「あーっ!」と突然叫んで、勢いよく僕に近付いて来て言った。
「あ、あのね、篠原君! 私、昨日、彼女に会ったのよ!」
「は?」
「ほら、あなたが捜してた彼女!」
「ええっ?」
「あ、でも、彼女、なんだか変なことを言ってたわ。あなたと図書館で大喧嘩したとかしないとか……」
「……」
「彼女に遭遇したとき、急いで篠原君に知らせてあげなくちゃと思ったんだけど、……その必要はない……みたい……ね?」
秋川緑は僕の憮然とした顔を見て、急に語尾が小さくなった。
「非常にありがたいと思いますけど、僕も彼女に会えたんです。彼女の連絡先ももう知ってます」
「やっぱり、そうなんだ……。でも良かったね」
「良かったのか、良くなかったんだか……」
「でも、彼女、あなたにとって、大切な人なんでしょ?」
「そう思ってたんですけどね……」
「実はね、私ね、彼女と意気投合しちゃって、すごく仲良しになっちゃったの」
「えーっ、ほんとですかっ?」
「うん」
二人でそう話していると、中村誠が「何の話をしているの?」と話に割って入って来た。
「前に、篠原君が話してたじゃない。この下宿に来たのは、更生しようと思ったというより、人を捜すためだって」
「そうだったっけ? そうか、そう言えば、そんな話をしてたね」
「ねぇ、篠原君、今スマホ持ってる?」
「ああ、持ってます」
僕はそう言って、スウェットのズボンからスマホを取り出した。
「もう一回彼女の写真を見せてくれる?」
「いいですけど……」
「絶対同じ人だと思うのよ」
僕は、スマホに保存されている戸田翔子の写真を取り出すと秋川緑に見せた。秋川緑は「ほら、やっぱり同じ人よ!」と叫んでいた。浜本琢磨も一緒に覗き込んでいて「へー、良かったですね」と言っていたのだが、中村誠だけは違った。彼の顔が、みるみる青ざめ歪んでいくのが分かった。そして、「篠原君! 彼女は君にとって大切な人なのかっ?」と急に声を荒げた。
「は、はぁ?」
「大切な人なのかどうなのか、はっきり言えよっ!」
「えっ?」
「さっき、彼女の連絡先はもう知ってると言ってたよねっ?」
「え、ええ、知ってますけど……」
「彼女は、一体君の何なんだいっ?」
「何って、僕もよく分かんないです……」
「はぁっ? それじゃあ、困るんだよっ!」
「え? なんで?」
「彼女はついこの間二十年ぶりに再会した僕の初恋の人なんだよっ! 僕は彼女と付き合いたいと思ってるんだっ!」
「えーーーーーっっっっっ!!!!!」
僕がそう叫んだと同時に、また雷が鳴り、誰かが二階から雄叫びを上げながらドタドタと降りてきて、玄関から外へ出て行った。おそらく佐々木吉信という人だろう。けれども、僕はその異常事態が気にならないくらい、中村誠のその言葉に驚いていた。知らない間に、僕は戸田翔子と中村誠と三角関係になっていた。
なんでこんなことになっているんだ!? 僕は戸田翔子を怒らせ、浮浪者だと勘違いされ、好かれるどころか嫌われているかもしれないのに……。
しかし、このやり取りが、これから始まる壮絶な戦いの始まりだとは、このときは知る由もなかった。
第五話へ続く




