第四話 9
金曜の午後五時半、秀巧社の玄関ロビーで、戸田翔子は中村誠が来るのを待っていた。ロビーの隅のソファーに腰掛けていると、受付カウンターから飛んでくる受付嬢の針のような視線を感じた。けれども、彼女たちも何も言っては来ない。彼女たちは、今日はちゃんとアポイントメントを取って、戸田翔子がここで編集員と待ち合わせをしているということを知っているからである。しかし、それにしても、藪にらみのような顔をして鋭い視線を飛ばしてくるので、戸田翔子もそれに応戦しているのだった。実にくだらないとは思う。でも、今まで彼女たちから受けた屈辱的な仕打ちの仕返しとばかりに戸田翔子は彼女たちにガンを飛ばしていた。
午後五時半を十分過ぎたところで、中村誠がエレベーターから降り、こちらに走って来るのが見えた。なんて晴れやかな表情で軽やかな足取りなんだろう、恋する男って本当に無邪気だなとどこか他人事のように戸田翔子は中村誠を観察していた。
三十分後、秀巧社の近くの三ツ星レストランで戸田翔子は中村誠と会話していた。
「だから、翔子ちゃん、僕の取材を手伝ってくれたら、プレシャスの編集員を紹介してあげるからさ」
「プレシャスって、三十代の女性向け月刊誌の?」
「うん。プレシャスもいろんな特集組んでるし、作家先生の連載もあるしね。挿絵は必要だと思うよ」
「でも、イラスト描いてる私が、中村君の取材の手伝いなんかできる? 役に立てるとは思えないんだけど?」
「いや、同行してくれるだけでいいんだよ」
「はぁ?」
「俺さ、記事を書くだけじゃなくてさ、最近、写真も撮ってるんだよ。だから、傍に女性がいてくれるだけで、相手が油断するからいいんだよ」
「はあっ!? もしかして、盗撮かなんかしようと思ってるわけっ!?」
「い、いや、そんなことするわけないじゃないか……」
「でも週刊シュートって、そういう雑誌だよねっ?」
「ま、まぁ、そ、そうだけどね……」
「最低!」
「しようがないじゃないか! 俺だってやりたくてやってるわけじゃない。仕事だからやってるだけだ!」
「私だって、いかがわしい雑誌のイラストだったら、幾らでも採用されるチャンスはあったのよ! だけど、あえてしなかったの!」
「だったら……」
「だったら、何?」
「この話は無かった、ということでいいんだね」
「ええ、それで結構!」
戸田翔子は、それはそれは最高に素敵な三ツ星レストランで、中村誠とこんな最低な会話する羽目になり、なんであんなに簡単に彼の口車に乗ったんだろう?と自己嫌悪に陥っていた。それにしても、中村誠は仕立てのいい高級ブランドのスーツを身に着け、どこぞのセレブかというような恰好をしていたのに、自分は普段着を着ていて、彼のせいでさらに自分がみすぼらしく思えて惨めで仕方なかった。彼は、食後に彼の所有する高級外車でドライブでもしようと思っていたのか、ワインも頼んでいなかった。
しかし、どうして自分は、こんなところでこんな最低なヤツと喧嘩をしなくちゃいけないんだろう、周りのカップルはみんな穏やかに笑っているのに……。そう思うといたたまれなくなり、戸田翔子は、レストランを出るなり中村誠と別れて、いつもの居酒屋へ一人で向かっていた。




