第四話 7
次の日の朝、昨日のお礼を言いに、大家の部屋を訪ねた。浜本琢磨へのお礼は、忙しい彼に代わって、夕飯をまた作って持って行くことにしようと思っていた。取りあえず、甘い物好きの大家には、昨日の夜、田中の爺さんから山ほど貰った饅頭を数個持参した。そしたら、大家は留守で、また例によって例のごとく、隣の蔵元の爺さんとななえ婆さんと三人で外で大喧嘩している声が開け放した窓から聞こえてきた。僕はその喧嘩が終わるのを台所で待つことにした。十五分経って大家は顔を真っ赤にして外から帰って来た。肩で息をしている大家を観察していると、さながら、戦いを終えて戦場から帰って来た兵士のようだなと思った。
大家は台所に入って来ると、冷蔵庫にあった缶ジュースをグビグビと飲み干した。すると、台所の隅に座っていた僕に気付いたのか、「ああ、篠原君もいたのかい? この冷蔵庫に入っているもので、名前が書いてないものは、食べたり飲んだり好きにしていいからね」と大家は、台所に据えてある冷蔵庫を指さして言った。
「ありがとうございます。大家さん、そんなことまでしてくださってるんですね。家賃だって光熱費込の二万円だし、こんな安いところ、今時探したってどこにもないですよ」
「ボロ下宿だからね、こんなもんだろう。俺は金はいらないんだよ。その日の飯が食えればそれでいい。金を持っては死ねないからね。しかも大切なものは金では買えない」
「ほんとにそうですね」
「俺は、五十五年前に大切なものを失くしてから、生きる意味なんて半分失ってるんだよ」
「え……」
僕は大家の言葉を興味深く聞きながら、「失くした大切なものとはなんだったんですか?」と聞けずにいた。何故なら、いつも明るい大家の顔が酷く沈んで見えたから。そして、僕自身も再びあの燃え盛る炎の前での絶望感を思い出していた。
「でも、長生きしてくださいね」
「まぁね、蔵元よりは長生きしないとな」
「二人ともすごくお元気ですよね」
「毎日大声で喧嘩しているのが、内臓にいいのかもしれんね」
「しかし、ある意味、良いライバルですよね」
「そうかもしれん」
隣の蔵元爺さんの話は、大家にとって腹が立つことなのではないかと思っていたのに、彼は穏やかな表情でそう言った。もしかしたら、蔵元爺さんとの毎日の喧嘩は、大家にとって、生きる張り合いになっているのかもしれないと、ふと思った。




