第三話 13
そう自分を奮い立たせて物思いに一人耽っていたとき、公園の隅のベンチで誰かが泣いているのに気付いた。僕は、思わずベンチの方を振り返った。けれども、やっぱり遠すぎて、誰が泣いているのか確認出来ない。僕は声の主に気付かれぬよう、楡の木に身を隠しながらそっと近付いた。近付いて確認したら、それが今一番会いたくない人間だったと分かったので、げっそりした。見覚えのあるセンスのない灰色のトレーナー、薄汚れたジーンズ、大きな布製の鞄。おまけに顔には大きな分厚い眼鏡。彼女は、昼間、図書館で僕をどん底に突き落とした戸田翔子だった。
僕は戸田翔子の顔を確認した途端、彼女に見つからぬように、そっと後退りした。見つかったら最後、どんな災難がまた僕に降りかかってくるやもしれぬ。今晩、この公園に、寝泊まりしている場合ではない。彼女に見つからぬように、さっさと希望荘に帰ろうと思った。ところが、そうしようと思った瞬間、彼女が泣きながら手にしている本が目に入った。なんと、彼女が持っている本の題名は「妖精ミリルの冒険」だった!
これは一体どういうことなのか!?
なんで彼女があの本を持っているのだ!?
僕は、その場から一歩も動けず、楡の木に隠れて戸田翔子の様子を窺った。彼女の目からは次々と涙が溢れている。あまりにも大泣きしているので、彼女は眼鏡を外して涙を拭い、鞄からティッシュを取り出して、これ見よがしにぶーんと大きな音を立てて鼻をかんだ。そして、昼間、僕と格闘の末、奪取した「宇宙からきたコロボックル」を鞄から出して読み始め、また泣き始めた。そしてまた、ティッシュでぶーんと鼻をかんだ。その瞬間、戸田翔子は、それまで俯けていた顔を上げ、僕の方を見た。その瞬間、卒倒しそうになった。分厚い眼鏡を取った戸田翔子は、僕のよく知っている女性とそっくりだったからである。彼女の容姿は、紛れもなく沢野絵美そのものだった!
えーーーーーっっっっっ!!!!!
なんでーーーーーっっっっっ!!!!!
僕はその場で腰を抜かしていた。一歩も動けなかった。それなのに、顔を上げた瞬間、誰かがこちらを窺っていることに気付いた彼女は、ベンチから立ち上がって僕にどんどん近付いて来る。しかも、最初は不安げな表情だったのに、近付いて僕の姿と顔を確認して「あ!」と叫んで一瞬戸惑ったかと思うと、みるみるうちに鬼の形相になった。彼女は「なんであなたがここにいるの!」と叫んでいた。
「えっ!?」
「なんでいるのかって聞いているのよ!」
「な、な、なんでと言われても……」
「私のことを尾行してきたの?」
「は?」
「あなた、昼間、私に向かってストーカーじゃないのかって言ってたでしょ! 何がストーカーよ! ストーカーはあなたじゃないの!」
「はぁあ? ぼ、僕は、と、友達と、こ、ここで飲んでただけです」
「どこに友達がいるのよ? 誰もいないじゃないの!」
「い、いや、もう寝てるから」
「寝てる?」
「ほ、ほら、あそこに」
と僕は、峰岸爺さんのブルーシートの塒を指差したら、彼女の顔は苦虫を潰したような表情になった。
「も、もしかして、あなた浮浪者なの!?」
僕は何故だか黙って頷いた。そしたら、彼女は、急に無言になり、ベンチに掛け戻り、自分の荷物を抱えると、「最低!」と一言言い残して走り去った。
僕は、一人、呆然と腰を抜かして地面に横たわっていた。横たわったまま、今、起こったことを頭の中で整理しようとしていた。でも、整理なんか出来るわけない。とにかく、ずっと探していた女性に会えたが、彼女は、優しくておしとやかだった沢野絵美とは似ても似つかない凶暴な女性だったということだけは理解できた。ということは、彼女は沢野絵美とは別人ということなんだろうか? 見た目はあんなにそっくりなのに? 彼女に「最低!」と言われたが、「最低!」と言いたいのは、こっちだ!と言いたかった。でも、生きて動いている沢野絵美に再び会えたのだ! 喜んでいいのか、悲しんでいいのか、全く分からない。
なんだか、物凄く疲れた。急に酔いが回って来て頭がクラクラした。ふと夜空を見上げると、満月が浮かんでいた。また、フラッシュバックが起こり、僕は頭を抱えた。そして、僕の頭の中の火事の光景に、物凄い勢いで巨大な雷が落ち、僕はその場で気絶したのだった。
第四話へ続く




