第一話 3
僕は一ヶ月前から、この古びた下宿に住んでいる。築五十年以上は経っているだろうおんぼろ下宿だった。名前は「希望荘」という。大家によると、ここから巣立って行く者の人生が、希望に満ちたものになるようにと願って、名付けたそうである。
記憶がぼんやりとして定かではないのだが、この希望荘に来る更に一年前までは、僕は人並みにごく平凡な人生を送っていた。高校の国語の教師をしていて、このまま何事もなく定年まで勤めれば、退職金も満額貰えて、年金もそれなりに貰える平穏無事な人生が待っているはずだった。通帳には、かなりの額が貯まっていた。1Kの古びた賃貸マンションに住み、これといった金をかけるような趣味もなく、嫌いなわけではないのだが、酒も煙草も嗜まない僕にとって、金はまるで無用の長物のようだった。稼いだ金で恩返しをしたかった祖母は既に亡く、たった一人生きている僕は、ただ、その日の食事にありつければそれで良かった。
教員生活はそれなりに大変であり、それなりに楽しいこともあったが、生徒に「なんで勉強ばっかりしないといけないのか?」とか「大学へ行くことだけが人生じゃないだろう」とか「プロ野球選手になるとかダンサーになるとか飲食店経営とかサラリーマン以外の他の夢があってもいいのじゃないのか?」とか「大学で習うことは社会に出て実際に役に立つようなことなのか?」とか「畑があって自給自足が出来ればそれでいいじゃないか。未開の地の人はそれで人生が十分成り立っている」とか言われると、ぐうの音も出ず、黙りこくって頷いている自分がいた。自分が大学を出てしがない教師をしていること自体、なんだか凄く虚しかった。
それでも、僕は本を読むことは好きだった。小説も好きだったが、祖父の影響からか童話を読むのが好きだった。童話を読んでいると、祖父の話を楽しそうに聞いていた弟の顔がいつも懐かしく思い出された。だから、そういう読書の楽しみを子供たちに知って貰いたくて、国語の教師になったようなものだった。それなのに、担当しているのが高校三年の受験生だったので、今僕が授業でやっていることときたら、毎時間毎時間、センター試験に向けての模擬試験と答え合わせだった。これをやると、実際に生徒の成績が上がるので、保護者には喜ばれたが、僕自身はどんどん鬱状態に陥った。教師になるにしても高校ではなく小学校のほうが良かったのかもしれない。しかし僕は高校の教員免許しか持っていなかった。僕は選択を誤るという重大なミスを犯していた。だから、午後五時になると仕事をさっさと片付け退勤し、暇さえあれば、区立図書館にこもって、好きな本を読み耽るという始末……。そうやって僕は精神の安定を図っていた。