表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
希望荘の住人  作者: 早瀬 薫
26/108

第三話 9

 翌日の土曜日、目が覚めたのは外の騒音がきっかけだった。最初は、夢の中で、ななえ婆さんが大家に、「だから、部屋の中で魚を焼くなと言っただろう!」とこっぴどく叱られていたのだが、そのうち隣の蔵元爺さんが加わって、またいつものように、「お前の洗濯物がうちの敷地にはみ出ている」というくだらない理由で大声で喧嘩していた。その蔵元爺さんの声で、夢ではなく現実に外で喧嘩しているのだと気付いた。本当にバカバカしいと思ったが、昨晩の頭の中の火事の妄想より、随分平和な光景だなと思ってしまった。


 僕は洗面所の前で、自分の顔とにらめっこしていた。昨晩、田中の爺さんに言われたように、図書館に沢野絵美を捜しに行くつもりだった。何故だか、彼の予言は当たっている気がしていた。だから、僕は、沢野絵美が生きていたときのように、鬱陶しく顔を隠していた前髪を掻き分けてセットし、眼鏡を外した。そして振り返ったら、目の前に、外で喧嘩していたはずのななえ婆さんの顔があって、ななえ婆さんは僕を見てびっくり仰天していた。

「あんた、誰だいっ!?」

「はぁ?」

「勝手に人の家に入って来るんじゃないよ!」

「勝手にって……、僕ですよ、僕!」

 僕はズボンのポケットからさっきまで掛けていた眼鏡を取り出すと、再び顔に掛けた。それを見たななえ婆さんは、あんぐりと口を開けたまま、暫く無言で立ちつくしていた。そこに、歯を磨こうと起きてきた秋川緑がちょうどやって来たので、ななえ婆さんは彼女の腕を掴み「み、み、見てみなよ! 篠原の兄さんを! 物凄い男前だよ!」と叫んだ。秋川緑は怪訝な顔をして僕をじっと見ていたが、昨日と同じく眼鏡を掛けた僕だったので、「何言ってるのよ。そうね、篠原さんは男前よね」と普通に答えた。僕は、そんなやり取りをしている二人を置いて、その場からそそくさと退散し、図書館へと出掛けた。


 外に出てから、僕は眼鏡を外した。自分の顔は毎日見ているから、何とも思わないのだが、僕は女子にそんなに騒がれるほど男前なんだろうか? 今日の僕を見て、沢野絵美は喜んでくれるだろうか? 図書館への道筋の途中、通る店のウィンドウに映った自分の姿が気になって、ちらほら眺めてしまう自分がいた。そう言えば、さっきから行き交う女性の視線が、いつもより妙に長い時間自分を捉えている気はする。やっぱり、沢野絵美に言われた通り、眼鏡なんて掛けないほうがいいんだろうか……。でも、僕は、彼女以外の女性にモテたいなどと、これっぽちも思っていないのだった。


 本当は今日、図書館へ行くのは、沢野絵美を捜しに行くという理由の他に、もう一つ別の理由があった。入荷待ちしていた本が入荷したと図書館から連絡があったからである。その本は、僕が生まれるよりかなり前の一九六七年に発行された絵本の初版本だった。しかも、沢野絵美が好きだった童話作家、佐藤みつるの「宇宙からきたコロボックル」という絵本で、村口勉がイラストを描いていた。

 この本は、何度も重版されるような人気のある絵本だったが、どういう経緯でそうなったのか分からないが、初版本とその後に重版された本とのイラストが異なっているらしいのである。初版本のイラストを見てみたいと思っても、部数の少ない初版本を手に入れるのは難しい状況にあった。生前、沢野絵美が幻のこの本のことを僕に話してくれて、見られる機会があったら是非見てみたいものだと話していたのだった。彼女が亡くなるだなんて思いもしていなかった一年半前、図書館の司書さんにそのことを話していたら、「そうなんですね。 実は、私も佐藤みつるさんのファンなんですよ。だから是非探させてください。でも、あてにしないで気長に待っててくださいね」と笑顔で請け負ってくれたのだった。だから、「初版本が入りましたよ!」と電話を貰った時は、嬉しくて飛び跳ねたい気分の半面、この本を一番に見せたかった彼女はもうこの世にいないのだと思い胸が苦しくなった。けれども、沢野絵美が見たいと思っていた本がどんな本なのか、僕も興味があった。だって、彼女は僕に絶対に見てもらいたいと言ってくれていたのだから。そんな理由があって、今日、喜び勇んで図書館へ向かったのだった。本当は図書館からは、僕が失踪していた間も何度も電話をくれていたらしい。もう諦めようと思っていた矢先、最後にもう一度だけと思って、一昨日電話をくれたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ