第三話 6
秋川緑は、今日はいつもより早めに会社を退社していた。部長とぶつかり、むしゃくしゃするので、仕事が溜まっていたのにもかかわらず、定時に会社を出たのだった。彼女は、大手広告代理店インターネット部門の第二営業本部の一課に所属していて、今年で勤続二十年目だった。彼女はこの春から会社が新しく大体的に売り出すインターネット広告の営業部門のチームリーダーになっていて、所属する社員を纏める役割をしていた。売り上げを上げることこそ、会社に対する最大の貢献だと思うので、それぞれが得意としていることをして、チーム内で協力して売り上げを上げればそれでいいのでは?と思うのだが、どうしてだか、頭の固い部長は、「協力させるな、個人で個々の仕事を完結させろ」と言う。「どうしてですか?」と問うと「ルールだから」と答える。全くもって不可解である。営業なんかしたことのない部長が、余計な口を挟むなと思う。腹が立つので、部長に処理を頼まれた事務仕事を「私はこれから外回りに出るので、ご自分の仕事はご自分でなさってください!」と押し戻して帰って来てしまった。
帰宅途中、コンビニで山ほど缶ビールと酒の肴を購入し、帰ろうと玄関を出たら、目の前に大型バスが停まっている。中から大勢の老人たちが、大音量でお喋りしながら降りてきた。その老人の中に、見知った顔を見つけて眺めていたら、向こうも気付いたらしく、「緑姉さんじゃないか!」と声を掛けてきた。その人物は、希望荘六号室の原口ななえ、ななえ婆さんだった。
「ななえさん! もしかして、箱根の温泉旅行から今お帰り?」
「そうだよ。参ったよ。年寄ばっかりで」
老人会の慰安旅行だから年寄ばっかりで当然なのに、と思いながら秋川緑は「そりゃ、大変だったわね」と答えた。
「時間厳守しないヤツがいるわ、買ったはずの土産を忘れてきたからバスを戻せと叫ぶヤツがいるわ、料理が少ないと文句を言うヤツがいるわ、足腰が痛いと騒ぐわ、年寄と一緒に旅行なんざ行くもんじゃないね。鬱陶しいったらありゃしない」
「そうだったの。でも温泉は良かったんでしょ?」
「そりゃいいに決まってるじゃないか!」
「来月も温泉だって言ってたわよね。また同じメンバーで行くの?」
「そうだよ。大概にしろってんだい。せっかくの伊豆温泉なのに!」
「でも伊豆温泉は前から行きたいって言ってたじゃない?」
「だから仕方なく行くんだよ」
「結局、行くんだ」と思いながらも、なんだか楽しそうなななえ婆さんを見ていて、秋川緑は先程まであった鬱々とした感情がどこかに吹き飛んでいくのを感じていた。秋川緑は、ななえ婆さんの旅行の荷物を持ち、ああでもないこうでもないと他愛もない会話をななえ婆さんと交わしながら、希望荘に向かった。
希望荘に着くと、ななえ婆さんは「あんたにお土産を渡したいから、あたしの部屋に取りに来ておくれ。ついでに、一緒に夕飯を食べようよ。今あんたが手に持ってる物を持ってね」と言った。ななえ婆さんは、人間観察には長けていて、滅多に酒を飲まない秋川緑が缶ビールを購入しているのを見て、鬱憤が溜まっている彼女の話でも聞いてやろうと思っているのだった。




