第三話 3
暫くすると夜が明けて朝になった。このまま寝ると昼夜逆転してしまうので、今日は一日起きていることにした。洗面所で歯磨きをしようと思い自室のドアを勢いよく開けたら、廊下に何かが転がっていた。その転がっている毛むくじゃらの物体を確認して、それが田中青雲ではないかと判明したので、「わあああ、悪夢だ……」と思わず叫んだら、向こうも「わっ!」と叫んで驚いていた。
僕は、急に現実に引き戻された気がしてうんざりした……。しかし、よく考えたら、一号室のドアを開けて初対面の彼に「おお! お主! やっと来たか! 待っておったぞ!」とあり得ない言葉をかけられたのに、まるで臭い物に蓋をするかのように、そのままドアをバタンと閉め、挨拶もせずに自分の部屋に慌てて戻ったことを僕は思い出していた。
いくらなんでも、失礼なことをしてしまったかもしれないと思い、僕は田中の爺さんに「昨日はすみませんでした」と謝った。「いやいや、かまわんよ。ワシが外を歩くと、怖がって誰も近寄ってこんしな。びっくりするのは当然というものじゃ」と、彼は普通の人間のように喋った。案外、良い人かもしれない。そう言えば、秋川緑も浜本琢磨も困ったことがあったら、田中の爺さんに相談すると言っていたことを思い出した。仙人のような、はたまた浮浪者のような風貌だから、そりゃ当然人々は避けるだろうなと思いながらも、「そ、そうなんですか」と少し驚いてみせた。そしたら、田中の爺さんは、「ま、一部じゃが、これでもワシのファンがおるにはおるがな」と少し憮然とした表情で僕を見て言った。僕は急に居心地が悪くなった。なんだかこの爺さんには自分の心の中を全部見透かされているような気がする。
取りあえず、昨日、渡し損ねた煎餅の箱を部屋に取りに戻り、田中の爺さんに渡したら、「おお! ワシの好物ではないか!」と喜び、僕を自分の部屋へ招き入れてくれた。彼の部屋には炊飯器やポットが置いてあり、茶椀にご飯をよそうと、お茶漬けの元を取り出し、ご飯にぶっかけ、お湯を注いだ。そして、僕が進呈した煎餅をバリバリと割り、それも茶碗に投入すると、僕の前に差し出した。田中の爺さんは、「朝飯はまだであろう。食らうが良い」と言った。僕は、これから何が始まるんだろうと、彼のすることを呆然と見守っていたのだが、目の前に出されたお茶漬けを食べるしかなく、「ありがとうございます」と当たり前のように食べ始めた。食べてみると、高級煎餅を割り入れたお茶漬けは、ことのほか美味かった。僕は初対面に近い人間の部屋で、なんでお茶漬けを食べているのだろう?と思ったが、田中の爺さんのあまりにも現実離れした風貌を目の前にしていると、細かいことに拘るのがバカバカしく感じられた。自分だって、つい一ヶ月前まで、似たような風貌だったし、今だって、長い前髪は顔半分を隠したままだった。




