第三話 1
目が覚めたのは、午前二時だった。誰かが泣いている声が聞こえ、それから気になって眠れなくなった。おそらく、十号室からだろう。しかし、暫くすると、その声もおさまった。昨日の朝、一号室の田中青雲に挨拶に行ったはいいが、彼の風貌を見て、あまりのショックでそのまま挨拶もせずに自分の部屋に慌てて戻っていた。昨日は結局、それから自室に閉じこもり、一日中本を読み漁り、どこにも出掛けなかった。午前三時に起きるのは、幾らなんでも早過ぎる。このまま布団の中でもう一度眠りに就こうと思って目を閉じたが、どうにも眠れない。やっぱり、トイレに行って用を足してから寝ようと思って、布団から這い出し、廊下に出た。すると、五号室のドアが開けっ放しになっていた。どうやら浜本琢磨も起きているらしい。僕は五号室の前をそっと通り過ぎようとしたのだが、浜本琢磨は僕に気付いたのか、小さな声で僕を呼び止めた。
「篠原さん、ごめんなさい。起こしました? いつもより早く起きて、少しバタバタしてたから」
「いや、違うんだよ。ちょっと眠れなくてね」
「そうなんですか」
「でも、浜本君、もしかしてもう今から出掛けるの? 着替えてるみたいだし」
「ああ、今日から新しく新聞配達をすることになったんです」
「ええっ! バイトを三つも掛け持ちするの?」
「はい」
「マジで?」
「はい」
二人でコソコソこんな風にやり取りしていたのだが、この間、コーヒーをご馳走になったときも思ったが、薄明りの中で浜本琢磨の顔を改めてよく見ると、彼はやっぱりかなり整った顔立ちをしていた。「掃き溜めに鶴」とは、正にこのことを言うのだろう。彼は、本当にハンサムで爽やかな好青年だった。しかし、彼ならこんなに苦労しなくても、もっと割のいい仕事があるだろうに、なんとかならないものかと彼の顔を見て考え込んでいたのだが、彼はそんな僕の憂慮なんかお構いなく、「それじゃあ、もう行かなくちゃいけないんで」と爽やかに去っていった。