第二話 8
次の日も僕は朝早くから、近所をウロウロしながら沢野絵美を捜し続けた。今度は、沢野絵美と出逢った同じ時刻の夜の公園にも出掛けた。けれども、やはり彼女はいなかった。公園の片隅には峰岸爺さんが塒を作って、すでにすやすやと寝ていた。僕は彼の塒の片隅に、ワンカップの清酒と酒の肴をそっと置いて、その場を離れた。
その夜、台所で夕飯を食べた後、自室に戻り、インスタントコーヒーでも淹れようかと電気ポットを持って、洗面所に給水しに行こうとしたら、急に停電した。廊下の突当りにあるブレーカーを見に行ったら、ブレーカーが落ちていたので、上げようと思って手を伸ばしたが、やっぱり手が届かない。仕方がない、部屋から椅子を持って来ようと後ろを振り向いたら、ちょうどそこに浜本琢磨が立っていた。アルバイトから帰って来たばかりのようだった。僕は、作りすぎて余った夕飯の焼きそばを浜本琢磨に勧めた。すると、浜本琢磨は喜んで食べてくれ、その夕飯のお礼にと、浜本琢磨の自室で彼が僕にコーヒーを立ててくれることになった。
彼は、昼間勤めているカフェでもサイフォンでコーヒーを立てているらしい。手際よく慣れた手つきで器具をセットし、アルコールランプに火を点けた。コポコポと音を立てて、フラスコの湯が沸き、湯が重力に逆らってガラスの管の中を上って行く。その光景を眺めているのは楽しい。カフェでも、その光景を見たいがために足を運ぶお客さんもいるそうだ。
けれども、アルコールランプの炎を眺めていたら、急に頭が割れるように痛みだし、暫く起こっていなかった火事の光景がフラッシュバックし、僕は頭を抱えこんだ。その様子に気が付いた浜本琢磨は「どうしたんですか! 大丈夫ですか!」と僕を気遣ってくれた。
「い、いや、ごめんね。実は、炎がちょっと苦手でね……」
「そうなんですね……。実は僕もなんです。こんな仕事をしてるのに……」
「そうなの?」
「ええ。コーヒーは好きだし、サイフォンでコーヒーを立てるのは、化学の実験みたいで好きなんですけど、唯一、炎だけは未だに苦手です」
「そうなんだ……」
その後、好きなコーヒー談義を二人でしていたのだが、急に空がゴロゴロと音を立て始めた。そういえば、今朝のテレビの天気予報で、夜に雷注意報が出ていたのを思い出した。まさか雷は落ちないだろうけど、こんな木造の古い建物にもし雷でも落ちたら、あっという間に燃え尽きるだろうなとぼんやりと考えていたら、どこかの部屋のドアがバタンと大きな音を立てて開く音がした。
「うぉおおおおおおおおーーーーーっ!!!!!」
突然、獣のような雄叫びが、辺り一帯に鳴り響いた。そして、その猛獣は、部屋から出て階段をドタバタと一気に駆け下り、外に飛び出して行った。どしゃ降りの雨が降り出して来たというのに!
僕は、腰が抜けるかと思うくらいびっくりした。まるで、爆弾が落ちたかのような騒ぎだった。僕は、五号室の部屋のドアを開け、廊下に飛び出て階段の上から確かめたが、なんだか熊のような生き物の後姿が、玄関先で少しだけ見えたような気がした。
僕は、部屋の中にいる浜本琢磨のほうを振り返った。浜本琢磨は、少し顔をしかめてはいたが、僕ほど驚いてはいないようだった。しかも、他の部屋の住人も誰一人として、驚いている気配がない。ドアを開けて何があったのか確かめている人間は、僕一人だけだった。もしかして、僕が聞いた雄叫びは空耳だったのだろうか?
僕は訝りながらも、すごすごと五号室のドアを閉め、先程まで座っていた浜本琢磨の正面に座卓を挟んで座った。僕はしかめっ面をしながら、浜本琢磨が何か言い放つのを待っていた。けれども彼は自分から何かを言おうとする気が全くないようだった。僕たちは、にらめっこをするかのように、暫くの時間、お互いの渋面を睨んでいた。このまま睨み合っていても仕方がないので、僕から「あのう……」と口火を切った。
「なっ、なんでしょうかっ?」
「浜本君もそうだけど、大家さんもみんな、僕に何か隠してるよね?」
「え……」
「あの、実はね、この希望荘に関する良からぬ噂を耳にしてね、それが気になってたんだよ。大家さんは親切な人で、浮浪者の更生を手伝うために、この下宿を提供してくださってるのに、一人残らずみんな逃げ出してしまったそうだね」
「え、ええ、まぁ、そうですね……」
「その原因って、今の出来事と何か関係があるんじゃないの?」
「そ、そうかもしれないけど、それだけではないと思います……」
浜本琢磨は蚊の鳴くような小さな声で言った。
「正直に言うと、泣き声がどこかから聞こえてくるとか、幽霊が出るとか、化け物に遭遇したとか、聞いたんだよ」
「は、はぁ……」
「昨日の夜、確かに僕も誰かがすすり泣く声を聞いたんだ」
「そうですか……」
僕は浜本琢磨の顔を睨み付けていた。暫くの間、彼は黙りこくっていたが、やがて観念したのか、意を決したかのように口を開いた。
「あのぉ……」
「はい」
「今まで、更生しようと大家さんの紹介で入居してきた人は、確かに、気味悪がって出て行ったんだと思います」
「やっぱり……。この下宿には何かあるんだね」
「ええ。確かに、この下宿には、化け物みたいな人間が数名と、幽霊のようなものがいます。でも、その人たちは他の人たちに何か害を及ぼしたわけじゃないし、秋川さんも中村さんも全然平気だと言ってました。勿論、僕もです」
「ちょ、ちょっと待って! 一人じゃなくて、す、数名いるのっ!?」
「ま、まぁ、そうらしいですね。でも、僕も全部把握してるわけじゃないんです。幽霊に関しては、お手上げ状態です……」
「え……」
「ちなみに、さっきの物音ですけど、あれに関しては、全然恐がる必要はないと思います」
「というと?」
「あれはですね、九号室の佐々木吉信という人の仕業で、雷が鳴るとああなるみたいで、普段はほんとに大人しい人みたいです。でも僕は、あんまり下宿にいないせいか、普段の佐々木さんには会ったことがないんですけど」
「もしかして、その佐々木さんという人は、雷にトラウマがあるとか?」
「そうかもしれませんね。そんなようなことを田中さんがおっしゃってたと思います」
「ふーん……」
「幽霊なんですけど、僕は霊感体質でないせいか、全然見たことがないんですよ。多分、泣き声のことなんじゃないかな」
「幽霊が泣いてるの?」
「いや、中村さんから聞いたんですけど、十号室から聞こえてくるそうです」
「あ、そうだね! 昨晩、廊下に出て確かめたんだけど、確かに十号室から聞こえてきてるようだった!」
「でもね……」
「でも?」
「でも十号室は空き部屋のはずなんです」
「ええーっ!」
僕はそれを聞いてぞっとした。なんだか、この希望荘にずっと住んでいる自信がなくなってきた。その後、僕は、五分くらい無言で、浜本琢磨の顔を穴が開くくらい凝視していたと思う。けれども彼は明るい表情で次のように言った。
「篠原さん、確かにこの希望荘は不気味といえば不気味なんですけど、悪いことなんて起こったことがないし、僕は寧ろここに来てから良いことしか起こってないんですよ。ここに来るまで、僕は悲惨な生活をしてたんです」
その後、浜本琢磨は、実家の工務店が破産したおかげで、自分まで借金取りに追いかけられるようになって大学も辞め、やけになって酔っ払って道路で寝転んでいたら、大家に拾われたと語った。大家は知り合いの弁護士に頼み、実家の破産手続きもきちんとしてくれたという。しかも、自分だけでなく、今までも貧しい住人の面倒を色々みてきていて、後々出世した人間も多々いるらしい。中には大会社の社長や俳優や人気歌手などがいて、今でも時々訪ねてくるらしいと峰岸の爺さんが言っていたことと全く同じことを浜本琢磨は語った。
「へぇー、やっぱり大家さんて良い人なんだね」
「それに、困ったことがあったら、他にも気軽に相談に乗ってくれる親切な人もいるし……」
「親切な人って?」
「一号室の田中さんです。田中さん、ほんとに凄いんですよ」
「どんな風に? 生き字引みたいな人なの?」
「うーん、なんでも知ってる感じなんだけど、とにかくすごいんです。一度会ってみればいいですよ」
「そんなにすごいんだ」
「そう、すごいんです」
「そっか……。だったら、明日は田中さんに是非ともご挨拶しなくちゃ」
「ええ、そうされたほうがいいと思います」
そんな会話を浜本琢磨としてから、いろんな疑問が頭の中を渦巻いていたのだが、考えても仕様がないということと、特に悪いことは何も起こらず、寧ろ良いことしか起こっていないという彼の言葉を信じて、深く考えないことにした。取りあえず、明日はどこにも出掛けずチャンスを窺って、一号室の田中青雲という人物に挨拶に行こうと決心した。