第二話 7
夕方の五時になったので帰宅して、夕飯にしようかと思ったが、大家と一緒に昼間にスイーツをあれだけ食べたのだから、これ以上腹に入るわけがない。仕方がないので、夕飯抜きで午後八時の茶会に出席しようと階段を下りた。すると、台所の前で大家に出くわした。
しかし、ここの住人は一体どんな人間がいるんだろう?と思うと、なんだか怖くなっていた。僕の脳裏には、昼間、公園で子供たちのお母さんと交わした「幽霊が出るんです」という言葉が浮かんでいた。今まで居ついた浮浪者が一人もいないなんて、もしかしたら、この下宿にはとんでもない悪霊が住み着いているのかもしれない。目の前で穏やかに笑っている大家の顔が、グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」に出てくるおぞましい魔女の顔と重なって見え、ぞっとした。しかし、職を失った今、行くところもないし、秘密があるのなら、少なくともその秘密とやらを解き明してから出て行きたいではないか。そんなことを思いながら、しかめっ面で大家の顔を睨んでいたら、大家に「どこか具合が悪いのかね?」と訊かれて、「い、いや、別に」と慌てて取り繕った。
二人で台所に入ると、食卓の上にはすでにカステラの載ったケーキ皿やコーヒーカップがセッティングされていた。僕は、甘そうなカステラの山を見て思わず、「うぷっ」と吐きそうになった。
台所には、僕と大家を除くと三人の希望荘の住人がいた。四十代だと思われる女性、三十代だと思われる男性、二十代だと思われる男性の三人だった。三人は仲良く歓談しながら、カステラを横目にカレーを食べていた。大家はその人たちに向かって、「皆さん、紹介するよ。八号室に入った篠原さんという方だよ」と言った。僕も、「みなさん、始めまして。自己紹介が遅くなりましたが、一ヶ月前に八号室に入居しました篠原正義と言います」と挨拶した。
三人の自己紹介によると、四十代の女性は二号室の秋川緑という広告代理店勤務のオフィスガールで、三十代の男性は四号室の中村誠という出版社勤務のサラリーマン、二十代の男性は五号室の浜本琢磨という大学を中退してカフェとレストランでアルバイトを掛け持ちしているフリーターだった。最初に想像していたより、見た感じ随分と爽やかな面々だなと思った。もっとおぞましい風貌の住人がいると想像していたのに……。どうみても爽やかさしか漂よわない普通の人たちで、なんだか拍子抜けした。しかし、爽やかなのは外見だけで、本当はこの人たちには、恐ろしい謎が隠されているかもしれない。引き続き気を抜かず、警戒しておくべきだと一人で考え込んでいたら、秋川緑に「篠原さんもそうなんだね」と急に声を掛けられて、ぎょっとした。
「え、ええ!? 何がですか?」
「もう、篠原さん、話、聞いてなかったでしょ?」
「は、はい……」
「家守さんと昼間、お茶してたんでしょ? 家守さんもそうだけど、浜本君も私も甘党で、篠原さんもそうなんだね、と話してたのよ。このカステラ、粗目の砂糖付きでとってもおいしいから遠慮なく食べてね。はい、どうそ」
と秋川緑に勧められたので、断るわけにもいかず、カステラを一口食べたのだが、シンプルな味が妙に懐かしく、その後思わずパクパク食べてしまっていた。僕はやっぱり、甘党かもしれない。それを見た秋川緑は微笑みながら言った。
「うちの会社の近くにチーズケーキ屋さんができたの。そこのケーキでまたみんなでお茶会しましょうね。中村君は無理にとは言わないけどね」
秋川緑がそう言うと、「僕は辛党だから、甘い物はあんまり好きじゃないんだよ」と、カステラを食べずにコーヒーだけを啜っている中村誠が言った。
「だが、浜本君がサイフォンで淹れてくれるこのコーヒーは好きだろう?」
大家が言った。
「そうですね。また浜本君が淹れてくれるんだったら、参加したいけど」
「いつでもOKですよ」
浜本琢磨は中村誠にそう快く返事した。ぼんやり考え事をしていて、よく見ていなかったが、浜本琢磨がコーヒーを立ててくれたらしい。ああ、だから流しの横にアルコールランプが置いてあるのだな、あれに火を点けてサイフォンをあっためるんだなと思った。
「なんでだか、食の好みは、若者の真紀ちゃんと気が合うんだよね。彼女もケーキよりコーヒーが好きみたいだね」
「そうよね。中村君と真紀ちゃんって、見た感じ全然共通点なんて無さそうなのに。食べ物もそうだけど、趣味が合うというか、本や雑誌や建築関係のものが好きだったりするところとかも似てるわよね。性格は似てなさそうだけど」
「それ、どういう意味?」
「あなたはズケズケしてるけど、真紀ちゃんは恥ずかしがりじゃないの」
秋川緑が単刀直入にそう言うと、中村誠は「いつもながら秋川の姉さんは、はっきりしてるよな」と言いながらムッとし、浜本琢磨は「確かに」とくすっと笑った。浜本琢磨は「真紀ちゃんというのは、三号室に住んでいる二十歳の女の子なんです」と僕にそっと耳打ちして教えてくれた。
五人で歓談しながら、その他の部屋の人はどうしているんだろう?と思っていたのだが、午後九時になったので、大家は「それじゃあ、みなさん、これからも篠原君をよろしく頼むよ。さて、年寄は寝るとするか」と言って、自室に帰ってしまった。
今日みんなが食べていたカレーは秋川緑が作ったらしく、大家が去った後、僕は秋川緑にどんな食べ物が好きなのか質問攻めに合っていた。今日のナス入りカレーは、実は中村誠がリクエストしたものらしい。
「あ、そう言えば、僕は真紀ちゃんと好みが合うけど、ななえさんと田中さんも食の好みは不思議と合うみたいなんだよね」
そう中村誠が言ったので、僕は「ななえさんと田中さん?」と訊いたら、彼は「六号室が原口ななえさんというお婆ちゃんで、一号室が田中青雲さんなんだよ。田中さんも結構な年齢のお爺さんなんだけどね」と説明してくれた。
「二人とも、五時頃、夕飯を食べるらしいから、今の時間だともう寝てるでしょうね。あの二人、行動パターンも似てるのよね」
と秋川緑が言うと、浜本琢磨は初めて知ったらしく、「そんなに早いんですか! お腹空かないんですか!」と言うと、「早く寝るから、空かないんじゃない?」と秋川緑は言った。
「あ! もしかして!」
と急に僕が叫ぶと、みんながびっくりしていたのだが、僕は続けて、「ななえさんて、白髪の長い髪を後ろでお団子にしてる人ですよね?」と言った。
「そうそう! ななえさんにはもう挨拶したの?」
「いえ、ここに初めて来た日に見掛けただけで、でも、そのときは、一人じゃなくて三人で大喧嘩してました……」
そう僕が言うと、三人とも「ああ……」とため息交じりで一言言うと、急に黙り込んで目を細め、浮かない顔になった。そして、中村誠は、「あの三人はいつも喧嘩してるけれど、なんで五十五年も前から喧嘩しているのか、誰も理由を知らない」とぼやいた。
その後、「なんでここに入居しようと思ったのか?」とか「何の仕事をしていたのか?」とか色々根掘り葉掘り訊かれたので、別に隠し立てすることもなかったので、答えられることは全て答えた。
「でも、ここに入居しようと思ったのは、浮浪者をやめて本気で更生しようと思ったというより、人を捜してるからなんです」
僕がそう言うと、三人が同時に「え?」と僕の方を振り向いた。
「人を捜すために更生しようなんて、篠原さんにとって、その人はよっぽど大きい存在なの?」
「え、ええ、まぁ、そうかもしれないです……」
「写真があるなら見せて」
中村誠が言った。僕は、スマホをズボンのポケットから取り出すと、保存されている沢野絵美の写真を三人に見せた。
「この人なんですけど、みなさん、見かけたことはありませんか?」
みんなは僕のスマホを覗き込んだが、三人とも首を振った。でも、暫くして中村誠だけは、「どこかで見たことがあるような気もするな」と言った。
「ほんとですか!」
「うん。でも、最近じゃないような気がする。随分前のような……。でも、僕がここに来たのは、五年前で、それより前だと思うから、やっぱり別人だろうね」
「そうなんですか……」
僕はがっかりした。