第二話 3
この希望荘に辿り着いてから、一ヶ月の間、僕は隣人に引越の挨拶もせず、つまり誰とも接触せず、部屋に籠りっきりになっていた。壁も薄いしドアも薄かったから、下宿の住人がどんな生活をしているのか物音でなんとなく察しが付いたが、今までいろんなことがありすぎて、すぐに還俗する体勢が整っていなかった。大家もそんな僕を放っておいてくれた。共同の台所も風呂も人が寝静まった後、隠れるようにひっそりと利用していたが、髪の毛も髭も相変わらず伸び放題になっていた。
しかし、一ヶ月の間、ずっと一人で葛藤していた。あの満月の夜、公園で出逢った彼女に是が非でももう一度会いたい。彼女に会って、「どうして僕と同じ絵本を読んで泣いていたのですか? あなたは沢野絵美さんじゃないのですか?」と訊ねたかった。けれども、鏡に映った自分の姿を目にする度に、どうやっても勇気が湧いてこない。こんな僕を見て、彼女がまともに相手をしてくれるとは思えない……。髪の毛や髭はなんとか元通りになったとしても、彼女のような若い女性ともう一年以上も会話していなかった。というか、僕がこの世に生まれ落ちてからまともに会話した若い女性は沢野絵美だけで、彼女のおかげで初めて人間らしい暮らしが出来ていたのに、彼女が亡くなってからというもの、彼女に出会う前よりももっと女性恐怖症に陥っているようなあり様だった。
けれども、いつまでもこのままでいい訳がなく、僕は生前の沢野絵美の「夢を諦めないでほしい」という言葉を思い出し、勇気を奮い起こして伸び放題だった髪に自分で鋏を入れた。サイドはどうにか、短く切ることが出来たが、前髪だけは短く切れなかった。いざという時、顔だけはどうしても隠しておきたかったのである。別に犯罪を犯したわけでもないのに、僕はまだ世間から逃げ続けていた。
髭はやっぱり残しておけないと思ったので、一ヶ月ぶりに昼間に自分の部屋から出て、二階の洗面所で髭を剃った。ちょうど髭を剃り終えたところに、一階から階段を上がってきた人間と出くわした。大家だった。
「おお、さっぱりしたじゃないか! 見違えたね!」
「そ、そうですか……?」
「うん。篠原君は土台がいいんだから、恰好を整えれば普通の人間より見栄えがすると思うけどな。ああ、あのね、ついさっき、ケーキ屋をやってるご近所さんから売れ残りのカステラを沢山頂いてね、今日の夜、下の台所で夕飯後にみんなで茶会でもしようかと思って、その張り紙を貼りに来たんだよ。良かったら、篠原君もどうかね? 下宿のみんなに挨拶できる良い機会になると思うがね。篠原君は、甘い物は好きかね?」
「あ、はい。甘い物は結構好きです」
「なら、調度良かった。茶会は午後八時だからね」
そう言って、大家は洗面所のすぐ横にある掲示板にでかでかと張り紙をし、意気揚々と帰って行った。この間の下宿のビラと同じく今回もでかい筆字で、「本日○月○日、午後八時、台所にて茶会開催! ふるって御参加下さい」といらなくなったカレンダーの紙の裏いっぱいに書かれてあった。