第二話 2
ということで、家守の爺さんの下宿に無事に辿り着き、今、僕はこの「希望荘」に住んでいるのである。しかし、希望荘は本当に今にも崩れ落ちそうなボロボロの下宿だった。そして時折、どこからか悪臭が漂ってきた。しかもいまどき珍しい共同トイレ、共同風呂、共同台所だった。銭湯に行かなくて済むだけマシといえばマシかもしれないが……。
僕の部屋は二階の八号室で、二階には、六畳一間の同じような造りの部屋が廊下を挟んで向かい合って五部屋ずつ並び、貸部屋は全部で十部屋あった。一階へ続く階段が北東の隅っこにあり、階段の反対側には洗面所とトイレがあった。一階にももう一つトイレがあり、先程説明した共同の台所、風呂場があり、家守の爺さんの居室も一階にあった。希望荘は家守の爺さんが言った通りの「古い、臭い、汚い」の三拍子揃った下宿だった。今時の若者だったら、見た瞬間に逃げ出すような代物だった。
家賃は本当に二万円ぽっきりだった。その二万円を払うために、僕は過去を清算することにした。絵本以外に唯一大切に持っていた古びた1Kマンションの部屋の鍵を少ない荷物の中から探し出すと、僕は、約一年ぶりに自宅のドアを開けた。電気も水道もガスも止まっていた。ドアポストには山のように郵便物が詰め込まれていた。その中には、校長からの手紙も入っていた。僕は、休職扱いになっていて、いつでも復帰できると書かれてあった。ありがたかった。けれども、僕は、公衆電話から学校に電話を掛け、久しぶりに僕の声を聞いて驚く校長の言葉を遮り、お礼と謝罪の言葉を述べ、退職したいとの旨を伝えた。そして、僕は荷物を片付け、希望荘への引越を済ませた。
大家の家守の爺さんは、御年八十歳の老人だった。僕が引越を済ませたその日、彼は僕を一階の自宅に招いて、引越祝いと称して、出前の鮨をご馳走してくれ、自分の身の上話もしてくれた。結婚はしていたそうだが、随分前に奥さんを亡くしたそうで、子供もいないそうである。ついでに隣の家の禿頭の爺さんの話も聞かされたのだが、彼も大家の家守の爺さんと同い年の八十歳で名は蔵元一郎といい、彼は最初から男やもめだそうである。蔵元の爺さんの母親は大阪から東京へ嫁いできたそうで、そのせいか彼は根っからの江戸っ子なのに関西弁を喋った。大家によると、二人の仲は、子供の頃はそうでもなかったのに、大喧嘩をするくらい悪くなったのは大人になってからで、今から五十五年前のことだそうである。五十五年も前から喧嘩してるなんて考えただけで気が遠くなりそうだが、何かきっかけがあったんだろうに、そのことは大家の家守の爺さんは詳しくは教えてくれなかった。