ラブコメの神様、降臨する
午前6時30分、石井和久が眠りから覚めると、見たこともないおっさんがベットの脇に立っていた。
おっさんはニコニコと笑いながら和久の顔を見つめている。つかの間、和久とおっさんの視線が交わる。
小太りの体を揺らしながらおっさんは自己紹介した。
「どうもはじめして。ラブコメの神様、ここに降臨しました」
和久は大急ぎでベットから身を起こすと、スマホを取り出し警察に通報した。
おっさんは両手をバタバタさせながら、
「ちょ、ちょっとどうして警察呼ぶんですか。神様ですよ。偉いんですよ」
「黙れ犯罪者。禿げた頭の神様がどこにいる」
「そんな、酷い。ラブコメにおいて禿げてるのは欠点じゃなくて、最高のチャーミングポイントなんですよ」
和久はおっさんを睨みつけながら、じりじりと距離を取る。犯罪者が逆ギレして襲い掛かってきたらたまらない。
しかしおっさんの方は潤んだ目で和久を見つめたまま、髪の薄い頭を撫でている。逃げるでもなく、襲い掛かるわけでもなく、ただただ困っているような顔をしている。
その悪意を持たない様子に、本当にこのおっさんは犯罪者なのかと思い始めた頃、ようやく玄関の呼び鈴が鳴った。
和久は警察官に朝起きたら見知らぬおっさんが家に侵入していたことを説明する。そして逮捕してもらおうとおっさんの顔面を指さす。
しかし警察官は首を傾げる。そこには誰もいませんが? もしかして病院へ通院しておられますか?
和久は驚いた。自分にはこんなにもおっさんが鮮明に見えるのに。
なおも信じて貰おうと警察官に詰め寄ったが、結局は和久を信じずに帰ってしまった。帰り際に近くの精神病院を紹介される始末。
「あっ、わたし神様だから他人には見ないのですよ。ご心配なさらずに」
おっさんはいけしゃあしゃと和久に告げる。
「どうでもいいから、さっさと家から出て行ってくれ! 」
和久はおっさんに掴みかかろうとする。こうなれば直接叩き出すしかない。
「そうそう、言い忘れたんですけど、触るもの不可能ですから」
両手がおっさんの体を透過する。込められた力は行き場を失い、勢いあまって和久は転倒した。2LDKの一軒家が微かに振動する。
「こんなこともやれますよ。そーれ」
おっさんの体がふわりと宙に浮く。そのまま滑るように空中を行き来する。天井や壁に手足が衝突しそうになるが、物体も透過するらしく、空中をすいすいと遊泳する。
和久はそれを呆然と見上げた。おっさんが笑顔のまま飛び回る、悪夢の光景である。
一通りグルグルとした後、満足したのか、ふわりと華麗にカーペットの上に着地した。
「ところで昨日の夜、お見掛けした時には、高そうなスーツを着ていらしたんですけど会社に行かなくていいのでしょうか? 」
慌ててスマホを確認する。和久の顔が青ざめる。今すぐ家を出なければ。
取り合えずおっさんのことは無視して、朝食も取らずに、急いでスーツに着替え始めた。
電車には間一髪、間に合った。駅のホームを全力疾走したの何年ぶりか。
「いやー。間に合って良かったですね」
しかしおっさんまで引っ付いて来てしまった。おっさんは空を飛べるから汗一つかいてない。テカテカした顔に、にこやかな表情が浮かんでいる。なんとも小憎らしい。
「どうして俺に付いてくるんだよ? 」
「あなたを幸せにすために降臨したんですよ。常に傍にいるのは当たり前でしょう? 」
「これっぽちも頼んだ覚えはないが」
「実はわたし、昨日の夜、あなたが歩いているところを拝見しまして。その時あなたはすごく不幸そうな表情しておりまして、それこそ日本一かと思うほどに。それを見たわたしの胸がキュンキュンしたんですよ。このような不幸そうな顔をする人を幸せにすることこそ、ラブコメの神様の存在意義だと。」
おっさんは誇らしそうに胸を張った。
和久は押し黙った。それから電車に乗車している周囲の人々の表情を観察する。楽しそうな表情もあれば、物思いに沈んでいるような表情もある。自分はこれら表情と比べて、際立つほど不幸な表情をしているのだろうか。
駅に電車が止まり、和久はそこから会社に通じる道を歩き出した。頬に撫でる風が冷たい。暦上は春になっても、それを実感するのはまだまだ先になりそうである。
「なあ、お前は俺を幸せにすると言ってたけど、具体的にどうするつもりだ」
「そりゃあもう、ラブコメの力ですよ! わたしラブコメの神様ですから」
「ラブコメの力? あのなあ、俺の年を知っているか? 32歳だぞ。ラブコメの映画を見るのは好きだが、ラブコメに憧れる年じゃないぞ」
「いやいや、例え老人になってもラブコメは素晴らしいものですよ。男と女が出会い、紆余曲折がありながらも最後には結ばれる。この世にこれよりも素晴らしいことがありましょうか。いや、ありません」
おっさんはうっとりと空を見上げる。その瞳は夢見る少女のようだ。
歩いているうちに和久の勤める会社のビルがビルの谷間に顔を出した。このビルはこの街の中では一番高く、屋上には展望台さえある。そこから見る夜景は雑誌に紹介されるほどの絶景だ。
「へー、いい所に務めてるんですね。これならエリートだけど奥手な男がたまたまバイトに来ていた、ちょっと破天荒な女の子と恋に落ちるストーリーとかどうでしょうか? 」
「ふざけるな。さっきも言ったが映画じゃあるまいし、現実で起こるはずないだろ」
「フフッ。そこが神様の神様たる所以ですよ。まあ、もうすぐ嫌でも理解すると思いますよ」
おっさんは自信満々にニヤリと笑った。そして毛むくじゃらの指をパチンと鳴らした。
街の中心部の交差点に差し掛かった。ここを右に曲がればようやく目的のビルに辿り着ける。
だが和久はおっさんの言うことが気になり、前方の確認を怠った。その結果。
ドシンと誰かに衝突した。
前方を確認すると女の子が倒れていた。どうやらその女の子と衝突して倒してしまったらしい。
「だ、大丈夫ですか!? 」
慌てて女の子の元へと駆け寄る。ゆっくりと女の子が身を起こす。
「平気です。ちょっと急いでいたもので、こちらこそ申し訳ありません。あれ? 石井さんじゃないですか」
よく観察すると和久の会社の後輩だった。着ている制服も会社から支給されるものだ。
女の子が立ち上がるのを手伝おうとして、スカートが大きくめくれているのが目に入った。両足も大きく開かれて、純白なパンツが丸出しになっている。人と衝突して倒れると、あんなに足を開くものだろうか、不自然すぎる。
女の子の顔が羞恥に染まる。慌ててスカートの裾を整えると、
「ああっ、すいません。会社に遅刻しそうになってしまって。パンを咥えながら走っていたら、前の方をよく見てなかったのです。あの、その、また後ほどお会いしましょう」
真っ赤な顔をしたまま会社方へ走っていった。
断言しよう。普段の彼女は決してあのような高度を取る女性ではない。普段は冷静かつ優秀な事務員だ。
「お前の仕業か」
空中に浮遊しているおっさんに苦々しく語りかける。
「もちろん。すごいでしょう。わたしが傍にいる人はラブコメの主人公になるんですよ。これからも次々と愛の試練があなたを襲うでしょう。しかしぜひそれを乗り越えて真実の愛を手に入れてください」
「真実の愛だと。まったく能天気なものだな。昔は俺もそれを信じていた時代もあった。若かった。未熟だったのさ」
「大丈夫です。過去にはあなたのように聞き分けのない子もいましたが、わたしは全員幸せにしてきたという自負があります。例えばこの銃、撃たれた人の本音を無理やり引き出せるんです。極力使いたくはありませんが、いざとなったらそれも致し方なしです」
おっさんはいつの間にか両手にごつい銃を持っていた。映画に出てくるような陳腐な見た目だが、オーラのようなものが銃から漂っている。
「俺を撃つ気なのか」
「いえいえ、ですからこれは最終手段ですよ。今は女性とラブコメを楽しんだらいかがでしょうか? さっきの女性のパンツが見られて嬉しかったのではありませんか? 」
おっさんがぐいと顔を近づける。
和久は苦虫を嚙み潰したような顔になり、
「俺も男だ。美人のパンツを見て興奮しないだなんて言えない」
「そうでしょう、そうでしょう」
その自信満々な顔を眺めているうちに、一言だけでも言い返さなくては気が済まなくなった。
「だが、いい大人がパンを咥えて道を走るだなんて、時代錯誤だぞ」
「ありゃ、こりゃ失礼」
おっさんはピシャリと額を叩いた。
会社に到着して仕事を開始しても、おっさんによるラブコメの展開が巻き起こった。朝には後輩からラブレターのメールが送られ、昼食時には食堂のおばちゃんから定食を大盛りにされ、出先では初めて会った取引先の女性に太ももを撫でられた。挙句の果てに上司にホテルに誘われ逃げ帰るはめになった。
息も絶え絶えに家に帰るなり、和久は毒づいた。
「毎日この調子では、仕事にならない」
「ご心配ならさず、ラブコメの主人公が仕事が失敗するなどありえません。ラブコメにとって仕事の苦悩など雑音でしかありませんから。その証拠に本日の商談もうまくいったではありませんか」
「ラブコメなら不特定多数の女性に迫られたりはしないぞ。それに普段の彼女たちはあんな風じゃない」
「ラブコメお試し段階なのですよ。あなたには好みに合う女性を選んでいただき、本番はそれからになります。人格の方もあくまでそれに伴う一時的な変更であって、本番になればあなたと選んだ女性に相応しい物語が始まります。どうですか、素晴らしいシステムでしょう」
和久は舌打ちしながら、スーツを脱ぎ始める。
それから自分が持つ最も高価なスーツを箪笥から取り出す。
「あれ? またスーツに着替え直すんですか? 」
「なあ、俺はラブコメは好きな方だし、今日一日女性に迫られて悪い気がしなかったのも事実だ。お前の能力によって幸せになる男も沢山いるだろう。だから俺はそれなりにお前を認めている」
和久の表情が無表情から、苦渋に満ちたものに変わる。
「ただどうかこれから2時間だけは、俺に構わないでくれないか」
「どうしてですか? 」
「お前はこの家が一人暮らしをするには広すぎると思わなかったか」
おっさんは周囲をキョロキョロと見回した。確かに家の大きさの割には男の生活ぶりは質素なものだった。使っていない部屋もかなりあるようだ。
和久の口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
「俺は3年前まで妻と暮らしていた。だが妻は家を出て行ってしまったよ」
「なんと。結婚していたのですか。それはまいったなぁ。さすがに不倫はラブコメではNGですよ」
おっさんはガリガリと禿げた頭を掻きむしる。
「ふんっ、心配するな。もう妻とは離婚したようなものさ。ある日突然妻は離婚届を置いて家から出奔したのだから。もちろん俺は妻にその理由を問いただしさ。だが俺との生活が嫌になったとの一点張り」
「それは、その、お可哀そうに。」
「その頃の俺は仕事一筋でな。家に帰ってくることすら稀だった。きっとそれが悪かったのだろう。それに俺が気が付いたのは、妻に完全に嫌われた後だった」
おっさんの顔が悲しみに歪む。
和久はスーツに着替えながら、
「そう悲しそうな顔をするな。妻が家を出たのは3年間の話さ。3年だぞ、3年。昔の話だ。当初はあった悲しみや怒りもすでに風化しちまった。もう妻と一緒に暮らした記憶さえ薄れてしまったよ。自分でも薄情だとは思うがな」
ネクタイを締め、鏡に自分の姿を映して曲がっていないか確認する。
「だから俺は妻が要求する離婚に応じることにした。これから妻との最後の食事なんだ。明日離婚届を出す予定。さしずめ俺たち夫婦の最後の晩餐だ」
「はあ、それは何と言葉をかけるべきか」
「とにかく、これからの夕食だけはラブコメにするのはやめてくれ。妻の人格を変えるのもな。最後のけじめの食事ぐらい静かに過ごさせてくれないか」
和久はそこまで一息に述べると、長い息を吐きました。
しばらくおっさんは目を閉じ、なにやら考えている様子だったが、やがてカッと目を開けて、
「いえいえこのような寂しいシーンにこそ、ラブコメが必要なのです! ラブコメがあればきっとあなたの最後の晩餐も楽しいものになるはずですよ。ラブコメこそ万能なのです! 」
おっさんは楽しげにクルクルと回りはじめる。
和久はその自分の主張をまったく受け入れない様子に腹が立ち、ドンと壁を叩いた。
「いい加減にしてくれ! 確かにお前のラブコメの能力があれば大抵の悩みは解決するだろうよ。だが人生にはラブコメだけでは解決しない問題もある! 」
「ありませんから! 」
おっさんは自信満々な様子なまま歌うように断言した。
和久は唇を噛みしめた。今日一日に付き合っただけだが、このおっさんは俺が何を言っても、聞き入れはしないだろう。それに体に触れれないから、強制的にどこかに閉じ込めるのも不可能だ。結局、妻との最後の晩餐までラブコメに染まってしまうのか。
「くそっ! 勝手にしろ! 」
和久は激しく足を踏み鳴らしながら、妻との約束のレストランへと向かった。
レストランのドアを開けると、食事をしている人々の喧噪が耳を打った。
ウェイターが予約していた席に案内する。
「へえ、いい雰囲気のお店じゃないですか」
「妻と付き合っている頃からよく通っていた店だ」
「まさにラブコメの舞台に相応しいですよね」
「黙れ。ぶん殴るぞ」
おっさんは脅しにビビるはずもなく、ニヤニヤ笑う。
和久は悔しさを押し殺し、出された冷水をがぶ飲みのする。
おっさんと睨み合っていると、
「あら、誰と喋ってるのかしら? 」
涼やかな女性の声がした。
和久の顔から表情が消え、ゆっくりと振り返る。
純白のドレスを着た妻が立っていた。最後に見た時よりも髪を長く伸ばしていた。微かに香水の香りがする。
和久は胸に鈍痛を感じた。しかし3年前に妻が家を出た時に感じた痛みに比べると、小さなものだった。やはり年月はどんな痛みも風化させる。
「座っても? 」
「あ、ああ。どうぞ」
妻が椅子を引き、向かいに座った。両人とも即座に言葉が出て来ず、目を合わせず俯いた。
「あーダメダメ。ちゃんと奥様をエスコートしなくちゃ」
おっさんがダメ出しするが、和久は相手をする余裕など微塵もない。
おっさんは頬を膨らませて不満をアピールする。
「あの、その、離婚に同意してくれてありがとね」
しばしの沈黙の後、妻がぽつりと言った。
和久はじっとテーブルに視線を落としたまま、
「ああ、お前がもう二度と俺を愛してくれないと、ようやく理解したから」
「ごめんね。でもそれは私自身にもどうしようもないことなの」
「わかっている」
おっさんが和久の周りを飛び交い存在をアピールする。しかし和久は完全におっさんを無視して妻と話を続ける。
「だからせめて今日だけは湿っぽくならずに最後の夕食を楽しみましょう。あなたもそう思うでしょう? 」
「ああ、そうだな。この夕食が終われば二度と会うこともないだろうし、その方がいいだろうな」
妻が二人が座っているテーブルをそっと撫でる。
「ねえ、憶えてる? この席、あなたがプロポーズしてくれた場所なのよ。それだけじゃなく、誕生日を祝ったり、沢山の思い出があるわ」
「俺たちの学生時代からの行きつけの店だからな」
天井のシャンデリアの辺りを漂っていたおっさんはその二人の様子を観察して、
「うーん。離婚寸前の二人にしては悪くない雰囲気ですね。けれどやはりラブコメ成分が足りません。やはりここは私が手助けをばしなければ」
そう言うと、太い指をパチリと鳴らした。
ウェイトレスがお盆に料理を運んできた。
「俺がプロポーズした時に頼んだコースを用意してもらった」
「あら、それは楽しみ」
妻の表情が柔らかくなる。
和久も妻に隠すように小さく息をついた。
しかしウェイトレスが料理をテーブルに並べようとした瞬間、つるりと足を滑らした。
派手な音とともに、料理か乗っているお盆が派手にひっくり返される。料理が和久のズボンにかかり、べったりと黒い染みを作る。
「も、申し訳ありません」
慌ててウェイトレスが和久のズボンを拭く。
特に股間の部分を中心に。しつこく何度も。
たまらず和久はウェイトレスの両肩を掴んだ。
「もう結構ですから」
「で、でもズボンが汚れてしまって。そ、そうだ、クリーニング出さないといけないので、ズボンを脱いでいただけませんでしょうか」
「落ち着いてください」
ウェイトレスを掴む手に力を込める。
そしておっさんを睨みつける。
「またお前の仕業か」
「だってシリアスなシーンが続くと、ラブコメの本筋から外れてしまいます」
「だから今はラブコメ必要ないって言ってんだろ! 」
おっさんはニヤニヤしたまま、口笛を吹きだす。和久は歯ぎしりしながらそれを見上げる。
そしてどうにかこうにかウェイトレスを言いくるめて、この場を立ち去らせる。
妻に向き直り、ご機嫌を取るように口の端を引き上げた。
妻は窓から外をぼんやりと眺めていた。どうやらウェイトレスとの絡みには興味がなかったらしい。
「ねえ、あなたの会社のビルの展望台から一緒に眺めた夜景、とても綺麗だったわね」
「あ、ああ、そうだったな」
和久は妻が話を戻してくたことに、内心安堵する。
「またシリアスな雰囲気になっちゃいました。どうしてラブコメの良さをわかってくれないんですかね」
飽きれたようにおっさんが溜め息をつく。
「くそっ、どうにかしてこいつを黙らせる方法はないものか」
「さっきから誰かと話しているようだけど、どうしたの? 具合が悪いの? 」
「い、いや、何でもない」
和久はおっさんを振り払うように頭を振った。
「それならいいだけど」
妻が心配そうに小首を傾げる。その姿は和久と暮らしていた頃よりも美しく見えた。
俺と別れるからなのだろうか。和久の胸の鈍痛が強くなる。
「うーん。再びシリアスな雰囲気に戻ってしまいましたね。でもやっぱり離婚すると言いながらも悪くない雰囲気なんですよね。よし、もう一度試してみましょうか」
再びパチンと指が鳴らされる。
ウェイトレスが作り直しの料理を運んできた。今度は慎重に慎重を重ねてテーブルの上に並べる。
最後まで料理を並べ、ウェイトレスが安堵の息をつく。それをじっと眺めていた和久も同じような息を吐く。
妻が並べられた料理を見て歓声を上げる。
「このパスタ懐かしい。昔よく一緒に食べたわね。うん、おいしい」
妻は料理を口にしなら、和久に語り掛ける。
「そうか。それは良かった。この店を選んだかいがあったよ」
和久もパスタを頬張る。その瞬間、顔が強張る。
口にしたパスタはとんでもなく不味かった。思い出の中の味とはあまりにもかけ離れている。本当に食べ物かすら怪しい。
しかし妻はパスタを食べても平気なようだ。となると自分のパスタだけが不味いのだろうか。
「うぐぐ。なあ、このパスタ味がおかしくないか? 」
「うん? 美味しいパスタだけど」
「いやどうにも俺には不味く感じ……」
その言葉を言い終わらない内に、店の厨房から大声が飛んだ。
「何ですって! 私のパスタが不味いですって! 」
ドスドスと高らかに足音を響かせて、女性のシェフが目の前に現れた。
調理室から離れたテーブルに座り、かつ人に聞かれないように喋った声がシェフに聞かれるなどあり得ない。くそっ、またまたおっさんの仕業か。
シェフは和久の食べかけのパスタを口に含み、
「美味しいじゃないの! このパスタのどこが不味いの! 」
「い、いや、別に料理に文句をつけたい訳じゃなくて」
「ははあ、さてはあなた美食評論家ですね。それなら辛口なのも納得だわ。今新作の料理を研究しているんです。ぜひ食べて評価をいただきたんですが」
「……どうしてそうなるんですか」
シェフが晴れやかな笑顔のまま、強引に和久の手を握って調理室に連行そうとする。
「いやあ、ラブコメに勘違いと強引な展開は付き物ですから。心躍る光景ですよね」
目や輝かせながらおっさんが言う。
和久は強引にシェフの手を放し、彼女をなんとか説得しようとする。
しばらく説得が続き、なんとか後日もう一度店に訪れ、料理を味見すること約束してこの場はなんとか収まった。
和久は意気揚々と料理室に戻るシェフをげんなりした表情をしたまま見送った。テーブルのパスタは冷め切ってしまっている。もっとも仮に暖かくても、もはや食べる気がしないが。
妻は和久の一連の醜態を黙って眺めていたが、やがて諦めたように席から立ち上がった。
「ねえ、悪いんだけど、私帰ることにする。なんだか最後に夫婦の思い出を語り合うって雰囲気になりようがないし」
和久は妻を見上げた。確かにおっさんがここに居る以上、まともに話をするのもはや不可能だ。
それより自分はこの期に及んで妻と話すことがあるのだろうか。もちろん話すべき事柄をあれこれと準備してきてはいたが、実際にこうして妻と向き合うと、どれも大した意味を成さないように思えた。
「ああ、その方がいいだろうな」
どうせもう終わった関係だ。ならば一刻も早く清算してしまった方が合理的ではあるが。
「じゃあ、さよなら」
妻が立ち上がり、バックを手に歩き始める。
和久はその後ろ姿を、ただ、眺めた。
これで良かったのだと自分に言い聞かせる。自分にも妻にも問題があったのだろうが、それも全て過去の話。黙って見送ることこそが男としての最後の意地だ。
「なるほど、やっと理解しました」
和久の頭上のおっさんがポンと手のひらを叩いた。
そうだった、おっさんのことをすっかり忘れてしまっていた。
「あなたはもう一度、奥様とやり直したかったんですね! それならば他の女性のアプローチに応えなかったのも納得です。なんだか良い雰囲気でしたし、きっと奥様も同じ気持ちでしょう! 」
和久はおっさんの発言を慌てて遮る。
「バカ言うな! 今日は最後の晩餐だから、お互い大人の態度に徹しただけだ。俺はともかく妻にはその気はない。俺を嫌い抜いているから家を飛び出したんだ」
「いやいやあなたのラブコメは、奥さんと再び夫婦になるによって完結するのです。ああ、素晴らしいストーリーだと思いませんか? 」
「今日会ったばかりのお前に何がわかる、妻と別居して3年だぞ。俺が何もしなかったと思っているのか? 幾度も妻と話し合いを重ねても、離婚する意思を変えることは出来なかった。もう妻との関係は終わっているんだ!」
「ならばそれが本当か、この銃を使って試しましょうか」
おっさんは両手にはごつい銃が握られていた。
あの銃は、確かおっさん自身の説明によると、撃った人間の本音を引き出せる代物なはずだ。
「奥様を撃ちましょう。そうすればきっと奥様があなたに未練を残していることが証明されるかと。なあに、わたしが思うに、奥様の本音さえ聞ければ、簡単に夫婦に戻れるはずです」
おっさんは銃口を妻の後ろ姿に向ける。
「やめろ!! 」
和久は咄嗟に銃口の前に、立ちはだかった。
考えての行動ではない。体が勝手に動いた。
「あ」
銃の引き金が引かれる。
パンという間抜けな銃声と共に、和久の胸を熱い物体が通り抜けた。その衝撃にたまらず床に膝をつく。
「ええ!? どうして突然銃口の前に? 奥様が撃たれたからといっても、健康には影響はまったくないのに」
おっさんが銃を持ったまま、理解出来ないと言った風に頭を振る。
「そう…いう…ことじゃ…」
床に這いつくばったまま、息も絶え絶えにおっさんに反論する。胸が焼けるように熱い。
「あー、でもこの際だからあなたの本音を奥様にぶちまけてはいかがでしょうか? きっとその気持ちを奥様も受け取ってくれると思います」
「…ふざ…ける…な」
自分の意思に反して足が動き、和久は立ち上がった。自分の体じゃないように感じる。
問いただそうにも、その言葉が口から出ない。これがあの銃の効果なのだろうか。心臓の鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。
おっさんはわくわくした表情をして和久の姿を見守っている。
足が勝手に妻の後ろ姿を追いかけるように走り出す。やめろ、やめてくれ。もう妻とは終わったんだ、それなのに。
和久は妻に追いつくと後ろから妻の手を握りしめた。
ギョッとしたように妻が振り返る。
「俺ともう一度やり直してくれ!! 」
和久はそうと叫ぶと、妻の体に縋りついた。
戦慄する。これが、これが自分の本音なのか。今すぐこの茶番を辞めたい、しかし体が動かない。
「すごいです。これでハッピーエンド間違いなし! 」
おっさんが空中に浮かびながら、パチパチと手を叩いた。
だが和久の言葉を聞いた妻の眉間に皺が寄り、表情が怒りに変わる。
「…ふざけないでよ」
その声は限りなく冷たく、隠せない程、嫌悪感が滲み出ていた。そして和久を睨みつける。
「あれ? 」
さすがのおっさんも妻の尋常ではない様子に気が付いたらしく、笑顔が凍り付いた。
「俺が悪かった! だから捨てないでくれ! 」
これも銃の効果なのか、普段の和久ならば決して言わないだろう台詞を吐いてしまう。どうしても止められない。
妻は乱暴に繋がれた手を払い、一気にまくし立てる。
「触らないで! 私はもうあなたを好きじゃないのよ! それどころか虫唾が走るくらい嫌いなのよ! まだわからないの? 」
妻が家を出た日からわかっていた。けれど妻の口から直接告げられると、心に穴が開いたようにさえ感じる。
店の客があまりの大声に和久と妻に注目する。だが当の二人はそれどこではない。
「俺が悪い所を言ってくれ! 全て直すから! これからはお前のためにだけに生きるから! 」
「もう今更何もかも遅いのよ! 一人寂しくあなたを家で待つ女の気持ちを考えたことがある? 最後の最後ぐらいあなたに優しくした方がいいかと思ったのが間違いだったわ! 」
おっさんが何か言おうとして、口をパクパクする。しかし言葉が出てこない。
「心底見損なったわ! もう二度と私の前に現れないで!! 」
妻は手に持ったバックを振りかぶり、和久の横っ面に叩きつけた。
まったく予期していなかった攻撃に和久の首が捻じれる。頬を手で押さえる。あまりの衝撃に痛みさえ感じない。
異変に気が付いた客たちが騒ぎ始める。ようやく調理室から異変を察知したシェフやウエイトレスが何事かと出てくる。
妻はそれを一瞥すると、踵を返すと店から出て行った。そしてその姿を瞬く間に夜の闇が包み込んだ。
夜空にぽっかりと浮かぶ満月の下、和久とおっさんはとぼとぼと夜道を歩いていた。どちらも表情は暗く、言葉を発せない。
和久のスーツ姿はボロボロになってしまっている。スーツの股間当たりにはウェイトレスがぶちまけた料理の染みが残っている。さらに妻に横っ面を殴られたおかげで、左の頬が腫れあがり、髪の毛はぐしゃぐしゃになってしまっている。
その和久のあまりにも異様ないで立ちにすれ違う人々は、次々と道を避けてしまう。
「あの、本当にすいませんでした」
おっさんがようやく口を開いた。
和久は感情のない表情のままおっさんを見上げる。
「奥様がこれほどあなたを嫌っているとは思いませんでした。ラブコメだなんて浮かれていた自分がバカでした」
おっさんは空中に浮かんだまま土下座した。その目から涙が伝う。
「結果的にあなたをもっと不幸にしてしまいました。もうラブコメの神様は廃業します」
不幸。
自分は昨日と比べてより不幸になったのか。
おっさんの先に桜の木々が見えた。まだ3月だから一輪の花も咲かせていない。
しかしもう少し時間がたてば満開の花を咲かせるだろう。それはこの街において展望台に並ぶ観光スポットになる。
和久も過去何度も妻と一緒にこの道を訪れていた。
手を握り合い、笑顔を交わしながら。
ほんのつかの間、桜の木の下にかつて夫婦だった頃の二人の姿が幻影として浮かんだ。
呆然としていた表情がうっすらとした笑顔に変わる。
「いや、これで良かったんだ」
「え? 」
「大人ぶって、平穏のまま終わる別れよりも、引っぱたかれる方がずっと良い。強がりじゃなくてさ、なんだかさっぱりしたよ。お前が居なかったら、別れてからも何年も妻を引きずっていただろう」
人生に一度くらいならば、どん底を経験するのも悪くない。なぜならそこから先は上がっていくしかなのだから。和久は素直にそう思った。
「ひどい目ばかりだったけど、そこだけは感謝しているよ」
「そうですか! じゃあラブコメの神様をやめなくてもいいんですね! これからはあなたの次なる恋のためにラブコメを起こしますよ! 」
「調子に乗るな」
おっさんの声こそ大きかったが、無理して明るく振舞っているは明らかだった。和久を元気を出して欲しいのだろう、その気持ちだけは伝わってきた。
ぎこちなさが残った表情のまま、二人は笑い合った。
和久は立ち止まり、
「今夜は予定を変更して、歩いて帰ることにする」
「え? あなたの家まで結構距離がありますよ? 」
「この格好では電車に乗れないだろ。それにそこに桜の木があるだろ? もう少ししたら満開になる。その美しさについて話してやる」
和久再び歩き出した。桜の木々の方に向かって。
おっさんは何も言わずに付いて来る。
妻のことを誰かに語るのは今日限りになるだろう。だけど不思議と寂しさは感じない。
ふと、自分がどんな表情をしているのかおっさんに聞きたくなる。
少なくとも昨日よりは不幸な表情ではないはずだ。