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宮沢弘の文学論

描いてしまうことの恐さ

作者: 宮沢弘

まぁ、これはアシモフとシルヴァーバーグの話です。なので、私には実際には関係ないのですが。そんな発想も筆力もないのですから。


さて、「アシモフの二百周年を迎えた男」という作品があります。それをシルヴァーバーグが長編化したのが "The Positronic Man"(アンドリュー NDR-114)です。シルヴァーバーグは真正面から長編化しています。新しいエピソードもかなり控えめです。


ところが、どっちの作品でも最後の1,2ページが問題です。アシモフは、ただ「リトル・ミス」とだけ呟かせています。それにたいしてシルヴァーバーグは描写をしてしまっています。


それが大きな違いを生んでしまっています。


アシモフの方は、アンドリューが闘い、勝ち取ったからこその「リトル・ミス」なのです。それに対し、シルヴァーバーグの方は、アンドリューは勝ち取らなくとも戦い続けただけでも充分に成立してしまう結末ではないかと読めてしまうのです。なぜなら、アンドリューが何者なのかは、リトル・ミスは最初から知っていたと描かれているからです。


シルヴァーバーグの長編化を貶めるつもりはありません。貶めようとしたって無理です。でも、描いてしまっていることで、アシモフが描かなかった別の可能性を読み取らせてしまうのです。


この二作品を読んで、描いてしまうことの恐さというものが存在するのだと肝に銘じている次第です。

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