あなたなら……これくらいでちょうどいいですね
相手が盤上の歩を五枚取る。
「表ですか?それとも裏?」
おいおい、振り駒かよ……少なくとも初心者じゃないな。
「じゃあ、表で」
「それなら私が裏ってことになりますね。あ、一つ言っておきたい
ことがあるのですが」
「言っておきたいこと?」
彼女は少しためを作る。
「あなたが私に勝つことができれば、私はあなた達の部活に入りま
す。ただし、もしあなた達が負けたら……」
いたずら好きな子供のように、彼女は不敵な笑みを作る。
「負けたら?」
と、急にあっけらかんとした表情をする。
「その時は、その時です」
そういい終わると、五枚の歩を振り投げる。表の数が裏よりも多
ければ俺が先攻、裏の数が多ければ相手の先攻だ。
勝ったら部員になってくれるだと?このチャンスを逃すわけには
いかない。部員獲得を有利に進めるためには人数は多ければ多いほ
どがいい。
パタタタタ……と、駒が落ちる音が聞こえる。歩と書かれた駒が
三枚、『と』と書かれた駒が2枚。俺の先攻だ。
「それじゃあ始めるか」
「あ、ちょっと待ってください」
彼女はそういうと、飛車と角、さらに香車と桂馬を掴み、地面に
そっと置いた。
「あなたなら……これくらいでちょうどいいですね」
六枚落ちだと……!こいつ、余程自分の腕に自信があるのか!
「へ……へえ、ずいぶん余裕じゃないか」
何とか取り繕うとするが、ダメだ。浮足立っているのが相手にバレ
バレだ。本来、動揺しているのは相手に悟られてはならないのだが
……。
「本当は金と銀も落としてよかったのですけど……あなた、他の人
と少し違うわね」
なんか褒められてるっぽいけど全然そんな気がしない。
「少々長話をしてしまいました。。始めましょう。さあ、気を抜い
て!」
何か相手に励まされているのがすごく癪だ。こうなったら何とし
てもぎゃふんと言わせてやりたい。
「よし、かかってこい!」
……
……結果から言うと、負けた。ぼろ負けだ。
途中まではまだ健闘していたとは思うが、終盤、相手の妙手から
全てが狂い始めたのだ。俺の穴熊は跡形もなく崩れ去った。
「うん、あなたは十分強いわ。私相手に最後の最後まで互角だった
のだから。ですが、詰めが甘いですね。勝てると思って慢心して
しまいました?」
「慢心?バカいえ、そこまで自分を過剰評価していない。それにお
前、六枚落ちだし」
「大駒を落としたところでやることは変わりません。必要なら、相
手から取ればいい」
ぐぬぬ……
「では、この辺で失礼いたします、あ、名乗るのを忘れていました。
私は金本飛香といいます。以後、お見知りおきを」
「あ、ちょ……」
松浦が声をかけたのを気にも留めない様子で、彼女は校門へと歩
き始めた。風で木の葉が舞い落ちる。舞い落ちた葉の一つが将棋盤
の上にそっと覆いかぶさる。
「ぬおおおおおおおおおおお!!!悔しいいいいいいいいいいいい
いいいいいいいい!!」
俺は制服の袖に思い切り噛みついた。松浦も同じような様子だ。
「くっそおおおおおおおおお!あの子めっちゃ可愛かったのに」
おい、着眼点が違うぞ、と突っ込もうとしたが、そんな気力すらな
かった。久々に将棋で脳をフル回転させたような気がした。試合に
は負けたが、なぜかそこには充実感が残る。
改めて、将棋の知略、計略を張り巡らすことの面白さを教えられ
た。今まで勝ちが当たり前だったが、敗北の苦汁を味わうことで、
また一歩引いた目線で将棋に向き合っていけるような気がした。
そう感じたのと同時に、反動で眠気が襲ってくる。
「もうダメだ、ちょっと屋上で休んでくる」
松浦にそう言い残してから俺は、屋上で仮眠をとることにした。
○ ○ ○
屋上には、当たり前だけど誰もいない。ここは、俺だけの場所だ。
フェンスに寄りかかって、校庭の方を見つめる。人が豆粒のよう
に見える。校庭の右側ではサッカー部がパス練習をしている。左側
では陸上部がハードルを跳んでいる。バスケットコートではバスケ
部がダンクの練習らしきことをしている。視線を上に移す。空は今
日も青い。太陽はすでに少し西に傾いてきており、遠くの方は橙に
染まっている。雲の流れは相変わらずゆっくりだ。
「あの時以来だな……将棋でここまで熱くなったのって」
親父は確かああ言った。俺がプロ棋士を目指すことを親父に伝え
た時のことだ。
『あ~それなら、オレと将棋で戦うのは今日までだな』
『え?どういうことだ?親父』
『どういうことって、お前はプロの棋士になるのが夢なんだろう?
だったら、夢は自分の力でつかむべきだ、そうだろ?』
『そうだけどさ、それとこれと何が関係あるんだよ』
『だからな、本当に棋士目指すんなら、お前と同じ世代の奴と戦え。
他の奴は自力で強くなってる。俺の力を借りなくても、お前なら
プロになれると思うぞ?』
『そんな……でも、俺は親父と……』
そう言いかけたところで親父が俺の頭に手をのせ、笑いながらこう
言った。
『俺は、そうやってきたさ』
『親父……』
俺があの時言おうとしていた言葉は思い出せない。だが、親父の
大きくてしわだらけの手が、あたたかかったことははっきりと覚え
ている。
昇降口の前に、松浦を見つける。そこには一人の同級生らしき人
物がいた。あっちは大丈夫だろう。俺は静かに瞼を閉じる。
○ ○ ○
誰かにペチンッと頬を叩かれて、俺は目を覚ました。
「松……浦……?」
辺りは紺青色に染まり、日はもう向こうの山々にほとんど隠れてし
まっている。目の前には、逆光で黒く染まった人影がある。
「もう帰る時間だ。人もほとんど降りてこないし」
やれやれといった様子で松浦は肩をすくめる。俺、二時間近く寝て
たのな。
「で、成果はあったのか?」
「ない」
松浦はきっぱりと言い切った。あまりに淡々と言うもんだから、反
論の隙もない。
「何人かは食いついてくれたんだけどね~。すごろくで遊んだだけ
で皆帰っちまったよ。ハハハハ」
「そこは何とか引き留められなかったのかよ~」
「ああ、勧誘すると急によそよそしくなっちゃってさ、流石に部員
二人だけの部活っていうのは不利なのかもしれんな」
でも、なんだかんだで手ごたえはあったじゃないか。人は来てい
る。
「明日また頑張るか!」
「おう!」
立ち上がって、俺は松浦とグータッチをする。大丈夫、あと九日
もある。
受験生ですが勉強に行き詰ったときとかに執筆してます。
第一志望受かるよう頑張ってます(現在進行形)