喫茶店
昼下がりの喫茶店は、仕事の合間に訪れてくる客で席が埋まり、少しばかり賑やかになる。通常時は静けさを保つ喫茶店でも、この時間になるといつもそうだった。
客席が比較的少ないこの喫茶店も例外ではなく、行列こそ出来上がらないが、五人程座ることの出来るカウンター席から、四人がけのテーブル席三つまで、コーヒーや紅茶などを求めて来た客によって埋まってしまう。
私はいつも、カウンターの右端にいた。そこから賑やかな店内を見渡しているのだ。
OL達の雑談や、サラリーマンの愚痴。聞きたくもない話し声が聞こえてきて、思わず耳を塞ぎたいという衝動に襲われる。
しかし、私は耳を塞げなかった。
気晴らしに窓から外を眺めてみれば、スーツに身を包んだサラリーマン達が忙しそうに街の中を歩いている姿がよく見える。何に焦っているのかは知らないが、どうして彼らはそこまでして働こうとするのだろうか。私には到底分からない悩みなのかもしれない。
天気は晴れ。一言でそう片づけていいものなのかはよく分からないが、とりあえず太陽が出ていることから『晴れ』と結論付けていいのだろう。青空の中に雲が点々と並んでおり、その部分を白く染めてる。私の心情とは裏腹に、相変わらず天気は良いらしい。
変わらない日常、平穏な毎日。こうしていつまでも私は同じような日々を過ごしていくのだろう、と考えていたその時だった。
「マスター、コーヒーを一杯もらえます?」
ふと、綺麗な声が聞こえてきた。思わずその声のした方を見ると、黒くて長い髪、白いワンピースに身を包んだ女性がいた。照明をわざと抑えているこの喫茶店にぴったりの、清楚で可憐な女性だ。その女性は私の近くに来て、この喫茶店のマスターである、コーヒーカップを拭いている男にそう注文していた。
私はその女性に一目惚れしていた。こんな可愛らしい女性が近くに来ているのに、惚れるなというのが無理な話だろう。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
彼女はあくまで丁寧な口調で答えると、男からコーヒーが注がれたカップを受け取る。湯気がほのかにのぼるそのコーヒーを、彼女は一口飲む。その姿は、まるで何処かの屋敷の令嬢を見ているかのようで、見事に様になっていた。
彼女の名前を知りたい。だが、尋ねようにも私は彼女に話しかけることが出来ない。頭の中で思考が巡る。
と、その時だった。彼女がふと横を振り向いて、私と目が合い微笑んでくれたような気がした。
私は身体が熱くなってくるのを感じた。湯気がのぼっているように感じられた。ここまで熱くなったのは初めての経験の為、私は戸惑ってしまった。そして気付けば彼女はその席におらず、彼女が立ち去ってしまったことを意味していた。
私の身体は、未だに少しだけ温かかった。
*
それからというものの、私はこの喫茶店がますます好きになった。周囲の声なんてどうでもよくなった。何故なら毎日彼女がこの喫茶店に来るようになり、しかも私が居る場所からすぐ近くの席に座るようになったからだ。
「マスター、いつものをお願いします」
「かしこまりました」
彼女はこの店の常連客となっていた。
服装は相変わらず白いワンピースであり、その姿こそ彼女の魅力を惹きたてる唯一の服装であるかのように思えた。
私は相変わらず彼女に話しかけられないが、それでも何度か目が合い、その度に彼女は微笑んでくれるのだ。それは単なる勘違いかもしれないが、それでも私の身体は熱くなり、湯気がのぼり、それから何も出来なくなってしまうのだ。
すると、彼女が突然私の身体に触れてきたのだ。
私は思わず固まった。彼女の手が、硬すぎる私の身体に触れて、その部分をゆっくりと温める。柔らかい。気持ちいい。様々な感情が、私の中に溢れてくる。彼女が何かを言っている気がするが、私には聞こえない。私はただ、その感触のよさに心を躍らせるだけだった。
その内、彼女は私の身体から手を離した。彼女が触れていた部分が、少しだけ温もりを残している。もう少しだけ、この幸せな時間を堪能していたいと思ったが、気付けばまた彼女が帰る時間帯となっていた。
立ち去る際の彼女の動作もまた、私の心を躍らせる。相変わらず私の身体はまだ温かい。
空を眺めてみると、雲ひとつない青空の中に、より一層強い光を放っている太陽が縫い付けられていた。かつてこれほどまで明るい太陽を見たことがあっただろうか。
「あのお嬢さん、ここ最近毎日この喫茶店に訪れますよね?」
ふと誰かが、マスターにそう尋ねた。尋ねていたのは、黒いスーツに身を包んだ、冴えない感じの青年だった。どうやらこの青年も、彼女のことが気になっているらしい。
「そうですね。貴方と同じように、最近この喫茶店の常連客となった方です」
「なるほど。少しばかり騒がしいこの喫茶店ですけど、お店の雰囲気とかは結構いい感じですから。さっきもその話で盛り上がっていたところです」
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
青年とマスターがそんな会話を交わす。しかし、どういうことなのだろう。ついさっきまでこの喫茶店にいた彼女は、私の左隣にいたはずだ。そして目線もこちらの方をじっと見ていたはず。だというのに、どうしてこの青年が彼女と話をしていたことになっているのだろうか。
恐らく、この青年もまた彼女に興味を抱いているのだろう。それが好意までいっているのかはともかく、この青年は少し注意すべき人物かもしれない。彼女とまともに会話が出来る、それだけで私より距離が縮まっているということなのだろう。そんなことを考えている内に、私の身体は少しずつ冷めてきていた。
*
それからかなりの期日が経過した。彼女と私が目を合わせる回数も増えれば、青年と彼女が会話を交わす日も多くなった。最近になって、彼女と目を合わせることで周りが見えなくなってしまったり、何も聞こえなくなってしまうことがなくなった私は、自分の周りで起きている出来事を冷静に把握することが出来るようになった。そして気付いたのだ。彼女が青年と話をしている時、とても楽しそうに笑っていることに。
その笑顔は、私の身体を熱くさせるのと同時に、何処か妙な違和感を抱かせるのだ。彼女が見せる天使のような微笑みは、私にとって心を躍らせるもののはずなのに、それ以上に別の感情を抱かせる。
彼女の笑顔が私にではなく、青年に向けられているものなのだと思うと、何故か苛立ってくるのだ。
「ついこの間こっちに引っ越してきたのでしたら、この喫茶店を知らなくても仕方ないですね」
「少し賑やかな喫茶店ですけど、それもまたいい感じのアクセントとなっていますから、私はこの喫茶店が好きですよ。これからも毎日この喫茶店に通うつもりです」
「僕も、仕事の合間にこの喫茶店を利用しているんですよ。マスターもいい人だし、この喫茶店に来れてよかったって思っています」
「ありがたきお言葉です。生憎老い耄れ一人で営業している喫茶店なものですから、何分不自由な所もあるとは思いますけど」
「そんなに遠慮しないで下さいよ、マスター。そういうところも、マスターのいいところだと僕は思ってますけど」
カウンター席の向こうでコーヒーを入れているマスターも、二人の会話に参加する。周りの人達がそれぞれの世界を作っているように、この三人もまた、自分達の世界を作り出して会話をしている。
私は近くにいるのに、その世界に入ることは出来ない。
何故なら私は、何も話せないからだ。
「すみません、マスター。少しだけ、席を外してもらっても構わないでしょうか?」
「……分かりました」
彼女の言葉を聞いて何かを読み取ったらしいマスターは、意味深な笑みを浮かべると共に、コーヒーカップをタオルで拭きながら奥の方へ引っ込んでしまった。
そこから、少しだけこの二人の世界に静かな空気が流れる。彼女の顔は何処か緊張している様子で、一方の青年は、何やらわけがわからないとでも言いたげな表情を浮かべていた。
あまりにも対照的過ぎる二人に、思わず私は呆れてしまう。
「えっと、僕に何か話が?」
ようやっと青年が話を切り出す。彼女があんな言葉を言ったというのに、どうしてこの青年はここまで頭の回転が遅いのだろうか。青年に対する呆れが、私の中で湧きあがる。
「はい。貴方に話があります」
そう告げると共に、私の身体に二人分の手が重なる。
あれ、どうしてこの青年の手まで私の身体に触れるのだろう。少しだけ私は疑問を抱いたが、そんな私の疑問など無視するように、彼女は言葉を発した。
「この喫茶店に毎日通っている理由、実はもう一つあったんです」
「え?」
彼女がこの喫茶店に毎日訪れるのは、確か内装や雰囲気が気に入ったからという理由からだったはずだ。それ以外に理由があるなどという話を、私は聞いていない。だとしたら、彼女がこの喫茶店に訪れるもう一つの理由というのは、何なのだろうか。
私は凄く気になった。
同時に、聞きたくないとも思った。
理由は分からないが、何処となく不安を覚えたのだ。彼女の次の言葉を聞いてはいけないという警告が、私の身体の中から発せられる。
だが、彼女は顔を少しだけ赤らめながら、こう言ったのだ。
「貴方がいたからです」
「……僕が、いたから?」
「はい。引っ越してきて少し不安が残っていた私と、気軽に話してくれた貴方がいたから、私はこうしてこの喫茶店に通い続けていました。貴方と話すこの時間が、好きだったんです」
彼女のその言葉を聞いた瞬間、全身が一気に冷たくなるのを感じた。どうしてなのか、すぐに分かった。
つまり彼女は、この青年のことを……。
「私は、貴方のことが好きなんです」
彼女は笑顔でそう言った。
その瞬間、悟ってしまった。
ああ、私の恋は、ここで――。
私の心は一瞬の浮遊感を残し、漆黒の縁へと転げ落ちていった。
*
パリンという音を立てて、僕が落としたコーヒーカップが割れ、すでに冷たくなっていたコーヒーが床を濡らした。中身が少ししかなかったのもあって、床に作った染みも、まるで涙のように細くなっていた。
だけど、今はそんなことを気にしている場合ではない。
僕は今、彼女に告白された。
僕よりも後にこの喫茶店に訪れて、僕と同じようにこの喫茶店の常連客になった、最近この街に引っ越してきた女性だ。歳は僕と同じくらいで、白いワンピースがよく似合う綺麗な女性だ。
僕は初めて彼女と会った時、少し興味が湧いた程度にしか思わなかった。綺麗な女性を見る機会が少ないわけではなく、彼女のような見た目の女性だって、そこまで少数というわけではない。
だが、僕は次第に彼女に惹かれていた。というより、段々と彼女の持つ魅力に気付いてきた、という方が正しいのかもしれない。
「貴方のことが、好きなんです」
真剣な表情を浮かべ、もう一度繰り返すように彼女は言った。その表情を見た僕は、ズルイと思ってしまった。
僕の心はすでに決まっていたのに、どうして先に告白なんてしてきたのだろう。
だからこそ、僕は彼女にこう答えた。
「僕も貴女のことが、好きです」
ふと僕の視界に、外の景色が映りこんできた。窓の外では、生憎のにわか雨によって地面が濡らされている。
雰囲気も何もあったものじゃない。こんな時位、祝福してくれるかのようないい天気になってもいいじゃないか。
そんなことを考えていた僕だったが、ふと僕達の下に転がっているコーヒーカップが目に映る。
白くて硬いコーヒーカップは、冷たくて黒い涙を流し続けていた。
〈了〉
当小説は、私が大学の部活で発行した部誌に載せた小説のひとつです。
作者名として「風並将吾」を名乗っております。
今回のコンセプトは、「恋愛」でした。
そこに、叙述的トリックというか、意外性を持たせたかったのでこんな形になりました。
それでは今回はこの辺で失礼させていただきます。