【短編】女上司がエンコーしていると聞いたから
「おい、聞いたか。三浦課長、エンコーしてるらしいぞ」
昼休み、給湯室でそんな話を耳にした俺は、思わずコーヒーを吹きそうになった。
三浦課長。二十九歳。仕事はできるし、部下にも公平。俺たち平社員にとっては少々近寄りがたいが、密かに憧れている社員も多い。
その彼女が、エンコー。
言うまでもなく、援助交際の略だ。
「……マジかよ」
「昨日、駅前で見たって人がいるんだよ。仕事帰りに、知らない男と会ってたらしい」
噂というものは、尾ひれがつくのが早い。
俺はその日の仕事中、何度も三浦課長の顔を見てしまった。
いつもどおり部下の書類を確認し、電話に応対し、会議では鋭い指摘を飛ばしている。
こんな人が、まさか。
いや、だからこそ意外なのかもしれない。
退勤時刻。
俺は三浦課長が会社を出るのを、少し離れた場所から待った。
課長は駅とは反対方向へ歩き始めた。
俺は気づかれないように後を追った。
課長は商店街を抜け、小さな路地に入った。やがて立ち止まったのは、古びたビルの一階だった。
看板には、太い文字でこう書かれていた。
「エンコー」
その下には、小さく。
「エンジョイ! コーヒー」
……コーヒー?
俺が首をかしげている間に、三浦課長は扉を開けて店内に入っていった。
これは、どういうことだ。
援助交際とコーヒーに、何の関係があるんだ?
まさか、何かの隠語なのか。
俺は意を決して、店の扉を開いた。
カラン、コロン。
「いらっしゃいませ!」
明るい声が響いた。
店内は、思ったよりも普通の喫茶店だった。カウンターにはコーヒーミルが置かれ、壁には世界各国のコーヒー豆の産地を示す地図が飾られている。
そして、カウンターの奥には三浦課長がいた。
「……課長?」
「あら、佐藤君。どうしたの?」
三浦課長は、エプロン姿でコーヒーを淹れていた。
俺は目を丸くした。
「えっ、あの……ここで、何を?」
「何って、コーヒーを楽しんでいるのよ」
「いや、そうじゃなくて……エンコーって……」
「ああ!」
課長は、ぽんと手を打った。
「あなたもエンコーしに来たのね!」
俺は思わず後ずさった。
「えっ、俺も!?」
「そうよ。エンジョイ・コーヒー。略してエンコー!」
課長は、壁に貼られたメニューを指さした。
そこには、ブレンド、キリマンジャロ、マンデリン、モカなどの名前が並んでいた。
「このお店、仕事帰りにいろいろなコーヒーを飲み比べられるの。豆の産地や焙煎の違いを楽しむ会もやっていてね。私は常連なのよ」
「……援助交際じゃ、ないんですか?」
「何を言っているの、佐藤君」
課長の目が、すっと細くなった。
「私はただ、コーヒーを楽しんでいるだけよ。人聞きの悪い噂を信じて尾行するなんて、感心しないわね」
「す、すみません!」
俺は頭を下げた。
すると、カウンターの向こうから店主らしい男性が顔を出した。
「おや、三浦さんのお知り合いですか?」
「ええ、うちの部下です。どうやら店名を誤解していたみたいで」
「ははは。まあ、初めての方にはよくありますよ」
店主は慣れた様子で笑った。
「それじゃあ、お客様。初めてでしたら、当店自慢のブレンドをどうぞ」
差し出されたコーヒーから、香ばしい匂いが立ち上る。
一口飲んでみる。
……うまい。
普段、会社の給湯室でインスタントコーヒーばかり飲んでいる俺には、驚くほど深い味わいだった。
「どう? おいしいでしょう?」
三浦課長が、少し得意げに笑った。
「はい。これは……いいですね」
「でしょう? 仕事で疲れた頭も、ちょっと休まるのよ」
課長は自分のカップを持ち上げた。
「ところで佐藤君。私がエンコーしているって、誰から聞いたの?」
俺は、再びコーヒーを吹きそうになった。
「そ、それは……」
「明日、噂の出どころを確認しましょうか」
「ご勘弁ください!」
店内に笑い声が響いた。
その後、俺はすっかり店が気に入り、週に一度は通うようになった。
もちろん、エンコーを楽しむために。
そして翌週。
給湯室で、俺は聞き覚えのある声を耳にした。
「なあ、知ってるか? 佐藤、最近エンコーにハマってるらしいぞ」
……頼むから、その略し方はやめてくれ。




