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【短編】女上司がエンコーしていると聞いたから

作者: 越路 秋葉
掲載日:2026/10/15

「おい、聞いたか。三浦課長、エンコーしてるらしいぞ」


昼休み、給湯室でそんな話を耳にした俺は、思わずコーヒーを吹きそうになった。


三浦課長。二十九歳。仕事はできるし、部下にも公平。俺たち平社員にとっては少々近寄りがたいが、密かに憧れている社員も多い。


その彼女が、エンコー。


言うまでもなく、援助交際の略だ。


「……マジかよ」


「昨日、駅前で見たって人がいるんだよ。仕事帰りに、知らない男と会ってたらしい」


噂というものは、尾ひれがつくのが早い。


俺はその日の仕事中、何度も三浦課長の顔を見てしまった。


いつもどおり部下の書類を確認し、電話に応対し、会議では鋭い指摘を飛ばしている。


こんな人が、まさか。


いや、だからこそ意外なのかもしれない。


退勤時刻。


俺は三浦課長が会社を出るのを、少し離れた場所から待った。


課長は駅とは反対方向へ歩き始めた。


俺は気づかれないように後を追った。


課長は商店街を抜け、小さな路地に入った。やがて立ち止まったのは、古びたビルの一階だった。


看板には、太い文字でこう書かれていた。


「エンコー」


その下には、小さく。


「エンジョイ! コーヒー」


……コーヒー?


俺が首をかしげている間に、三浦課長は扉を開けて店内に入っていった。


これは、どういうことだ。


援助交際とコーヒーに、何の関係があるんだ?


まさか、何かの隠語なのか。


俺は意を決して、店の扉を開いた。


カラン、コロン。


「いらっしゃいませ!」


明るい声が響いた。


店内は、思ったよりも普通の喫茶店だった。カウンターにはコーヒーミルが置かれ、壁には世界各国のコーヒー豆の産地を示す地図が飾られている。


そして、カウンターの奥には三浦課長がいた。


「……課長?」


「あら、佐藤君。どうしたの?」


三浦課長は、エプロン姿でコーヒーを淹れていた。


俺は目を丸くした。


「えっ、あの……ここで、何を?」


「何って、コーヒーを楽しんでいるのよ」


「いや、そうじゃなくて……エンコーって……」


「ああ!」


課長は、ぽんと手を打った。


「あなたもエンコーしに来たのね!」


俺は思わず後ずさった。


「えっ、俺も!?」


「そうよ。エンジョイ・コーヒー。略してエンコー!」


課長は、壁に貼られたメニューを指さした。


そこには、ブレンド、キリマンジャロ、マンデリン、モカなどの名前が並んでいた。


「このお店、仕事帰りにいろいろなコーヒーを飲み比べられるの。豆の産地や焙煎の違いを楽しむ会もやっていてね。私は常連なのよ」


「……援助交際じゃ、ないんですか?」


「何を言っているの、佐藤君」


課長の目が、すっと細くなった。


「私はただ、コーヒーを楽しんでいるだけよ。人聞きの悪い噂を信じて尾行するなんて、感心しないわね」


「す、すみません!」


俺は頭を下げた。


すると、カウンターの向こうから店主らしい男性が顔を出した。


「おや、三浦さんのお知り合いですか?」


「ええ、うちの部下です。どうやら店名を誤解していたみたいで」


「ははは。まあ、初めての方にはよくありますよ」


店主は慣れた様子で笑った。


「それじゃあ、お客様。初めてでしたら、当店自慢のブレンドをどうぞ」


差し出されたコーヒーから、香ばしい匂いが立ち上る。


一口飲んでみる。


……うまい。


普段、会社の給湯室でインスタントコーヒーばかり飲んでいる俺には、驚くほど深い味わいだった。


「どう? おいしいでしょう?」


三浦課長が、少し得意げに笑った。


「はい。これは……いいですね」


「でしょう? 仕事で疲れた頭も、ちょっと休まるのよ」


課長は自分のカップを持ち上げた。


「ところで佐藤君。私がエンコーしているって、誰から聞いたの?」


俺は、再びコーヒーを吹きそうになった。


「そ、それは……」


「明日、噂の出どころを確認しましょうか」


「ご勘弁ください!」


店内に笑い声が響いた。


その後、俺はすっかり店が気に入り、週に一度は通うようになった。


もちろん、エンコーを楽しむために。


そして翌週。


給湯室で、俺は聞き覚えのある声を耳にした。


「なあ、知ってるか? 佐藤、最近エンコーにハマってるらしいぞ」


……頼むから、その略し方はやめてくれ。


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